いったいどんな想いを込めて作っていたのだろうか。
タイムマシンがない限り、その本当のところを知ることは難しい。
なので、ここからは全て私の憶測と妄想と希望を込めて書かさせてもらう。
使い勝手が悪そうで実用的でない形や装飾。
びっしり描かれた模様。
何かを引っ掛ける輪っかのようなものが四つ。
国旗を立てるような穴も数カ所開いている。
国宝・火焔土器
実際の研究では、多くの火焔土器には、ススやオコゲ、吹きこぼれなどの使用痕を見ることができ、煮炊きに使われていたことが分かっている。
縄文人は耳飾りや首飾りなどの装飾品を身につけていたことも分かっている。
お洒落をしていたということは、もちろん土器にも模様をつけて他の人に自慢していたのかもしれない。あまり、家の中で使うものにはそこまでの装飾は施さないだろうが、煮炊きを同じ火の場所でしていたとすると、他人のものと区別するために装飾を施したのが始まりで、それがある種の競い合いのようになりデザインが進化したのではないだろうか。
そして、実用的でない取手も、その共同の火の場所に持っていくために持ちやすいようにロープや棒を通したりするものだったのかもしれない。
もうひとつ、実際に新潟県十日町や長岡市に行った時に感じたことは、豪雪地域であり、冬は寒いということ。
ということは、冬になれば狩りも出来なければ植物の採取もままならなかっただろう。
そして、なにもすることがなければ時間が出来る。となると、細かい装飾の土器も作ってみたくなったのかもしれない。
そして、土器を作るには、火が必要不可欠だし、特に豪雪地帯であれば、なおさら火のありがたさには感謝していたに違いない。もちろん、作っている時も寒さをしのぐために火の前で制作していただろう。そうなれば、自然と模様が火のようなデザインになるのは当然のことなのかもしれない。
その火をイメージした火焔土器を見れば、寒い夜も少しはやわらいだのだろうか。
もしかすると、実際には火焔土器は火をイメージしたものではないかもしれない。しかし、実際にあの場所へ行ってそう思ったのは事実である。
今後の私の作品作りにもおおきな刺激を与えることになった。