以前にとてつもなく影響を受けた鈴木大拙先生の本『鈴木大拙の言葉』
この本に匹敵する本にまた出逢ってしまった。

アップルの創業者スティーブ・ジョブズが禅に大きな影響を受けていたことをよく知られている。
そのジョブズが影響を受けた本『弓と禅』オイゲン・ヘリゲル、稲富 栄次郎、 上田 武 (1981/11)

そして、私が読んだ本『弓と禅』中西政次(1969/7)

ジョブズが影響を受けた本の題名『弓と禅』は知っていたが、もしかしたら違う本を読んだのかもしれない。

そんなことはどうでも良い。
むしろ、私が読んだ方こそ、今の私に必要な本だったから

『鈴木大拙の言葉』この本は中学生に向けて書かれた本だったので、入門編としてはとても分かり易かった。
『弓と禅』これまでに少なからず、私は禅の本を読んできたつもりだ。こちらの本はその蓄積された禅の知識があったからこそ理解できる本のような気がした。
もしかしたら、神様がここしかないという針の穴を通すタイミングで私に読ませたとさえ思える。

まず、この本を読んで驚いたことは悟りの境地が実在するということ。

私は、『悟り』とは昔話の世界で語り継がれる仙人の教えのようなものだと思っていた。
しかし、この本を読み進めていくと、確かにその境地がある。

この著者/中西政次は無影心月流という弓道を通して悟りを得たという。
この心月流は、的中だけでなく、その内面的な境涯、意識の統一度の強弱・心の固凝と柔軟度・清濁の純度・冴えの高低等を評価するという。

簡単に心月流を

以下引用

・・・意識は統一され、澄みきり、冴えた状態であった。この状態を盤珪禅師も鏡に譬えておられる。鏡にはすべての物の姿がありのままに写し出されるからである。この我見我執をなくして、生まれたままの心になりきる稽古が心月流弓道のねらいであり、通気(はけ)を感ずるようになった境が「不生の仏心の決定」「生まれたままの心」の自覚の境である。通気感の強弱・固凝と柔軟・清濁の純度によって段位の高低がある。最初の段階が”練気”であり、次が”開気”であり更に”統一”となる。私の経験からいえば”統一”の段階(禅では見性の段階)になってから、通気感が急に強くなったと思う。通気感の伸長とともに、人を見る眼が”浅から深”に進んだと考えられる・・・

筆者の開眼の体験

以下引用

私も弓だけでなく、毎朝の坐禅の時間も倍にし、禅書も読みあさりました。その禅書の中に”初発心時、便成正覚”(仏道を習う心を発した時、すでに正覚を成就したのである)という語を発見した時、迷いの雲が晴れたように思われました。歩む方向は間違っていないのだ、運が良ければ悟りに到達するだろう。悟りに到達しなくても、それは私の愚鈍な生まれつきの故なのだ。だからただ只管に弓を引くしか仕方がない、と覚悟をきめました。こうして入門より八年を経た時、或日突然、全く何の前ぶれもなく、突然、見性の時が来ました。それは昭和四十年十一月二十四日のことでした。
「勤めから帰って座敷に入ると、床の一輪挿しから紅の山茶花の花びらがこぼれていた。捨てようとして数片を掌にのせた。見れば見るほど、その色は鮮やかに、しかも厚みを増して宝石の如く光り輝いて見える。立っている両足にずっしりと重みが感ぜられ、更にそれが地心につながって千鈞の重みで引かれているようで、動こうにも動けない。不思議な体験だった。そのまま、どれほどの時間が経過したのだろうか。二、三秒なのか、十分くらいなのか、それは私にもわからない。ふと我に返って縁側に出て花びらをそっと捨てた。庭を見ると樹々が燦然と光って見える。苔も濡れたように青々と輝いて見える。目をあげると、屋根も山も空もすべてが異様に光り輝いて見える。さらにそれらの奥に、すばらしい何物かが見える。私は唯、恍惚と見とれていた。踵をかえして茶の間に行った。家内や娘がいた。家内や娘も、私の目下としての家内や娘ではなく、強い光を放つ尊い存在として見えるではないか。それは神とも仏とも言うべき尊い存在であった。あなたはよう私の妻になって下さった。娘たちよ、よく私の所に生まれてきて下さった。ありがたいことだと思われるではないか。翌日になっても変わらなかった。山川草木すべてが、絶対者の一部として感ぜられると共に、その奥に絶対者それ自体が観取されるではないか。実に不思議な体験だ。第三の眼が開いたのだ。直心の開眼だ。やったぞ。体が宙に浮いているような毎日だった。

「空の体感」

以下引用

「”空とは何もないことだ、何も思わないでする業が、仏道に叶ったことだ”という言葉や”仏道とは自己を習うことなり、自己を習うとは自己を忘るることなり”という言葉が、私には今まで納得できませんでした。脊梁骨を竪起して、天地に通けるものを意識することこそ真理であるという境に止まっていたから、それが納得できなかったのですね。弓道の通気感が更に進んで自己の殻(我見我執)を打破ったときに”空”の体感ができるのですね。”方寸の虚”を包んでいる枠を打破ったときに”太虚”と一体になったといえるのですね。では空とは”全く何もないこと”即ち虚無であるかといえば、そうではありません。宇宙に偏満充塞していきいきと活動するエネルギーであるのです。これは同一物の両面です。即ち空とか無とかは絶対的普遍的存在であり、唯一の実在です。これがこのたび私の到達した心境です。
別の角度から素朴に表現すれば、嬰児になったような心地です。絶対者(宇宙の当体)の子供になった安らかさです。母なる絶対者のスケジュールのままに動いている嬰児のように思われてならないのです。・・・

ここからは私の感想です。

私はまだ、禅の書物を読んでもほとんど理解できません。しかし、これらは直心開眼すれば、いろいろな古則公案が氷解するらしい。全く歯が立たなかった『無門関』や西田幾多郎先生の本とか…

読み進めていくと、円空や棟方志功が頭の中に浮かんでくることが度々あった。
おそらく、私にとっての到達地点はそこにあるはずだ。

空の状態から生まれてくる作品。

それが何なのか今はまだ確信が持てないが、そのイメージはずっと前からある。

以前に大阪髙島屋で画家のおばちゃん(ヨーロッパで活動していると言っていた)に
「あんたの作品は、こねくりまわしずぎやわ。もっとシンプルに表現してみい。」
「これはあかん。これもあかん。これはおしいわ。これいいわ。」
「時間はいくらでもあると思ってたら、あっちゅうまや。」
そんなことを言われたことを思い出していた。

もしかしたら、開眼すれば抽象画も理解できるようになるかもしれない。

この本を読んでから、色んなことがつじつまが合うような感覚になった。
円空の木端仏もまさに全てに仏が見えていたから、あれができたのだろう。
もちろん、厳しい修行をしたからこそ生まれた円空仏なのだ。
棟方志功も驚異的な速さで板に彫りつける。まさに、自分の存在を無くし絶対者に操られているようにも見える。子供のまま大人になったような「生まれたままの心」が感じられる。

私が向かうべき所は分かっている。
どんな作品が生まれてくるのか、わくわくしてくる。

『彫即是空』

yumitozen

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