何かに誘われるように本屋さんへと足が向かった。

探していた本があったわけでもなく、ただ時間を持て余していたからだ。

しかし、そんな時にこそ出会いはあるのだ。

 

ユリイカ 4月増刊号 総特集「縄文 Jomon」

ピンク色の怪しい表紙にJomonの文字。

ユリイカ聴いたことはある雑誌だったが、手に取ったことは一度もなかった。

もちろん、どんな雑誌なのかも知らない。

偶然にも、今回の画廊での展示会でちょうど、お客さんと縄文の話題で盛り上がっていた矢先のことだったから、余計に気になってしまった。

少し悩んだふりをしてみたが、もうすでに無意識レベルで買うことを決めていたと思う。

 

そして、今現在、この本を読みながらこのブログを書いている。

現在進行形で、感じたことを書き記していくことにする。

 

なぜ、縄文土器はあのような抽象彫刻に近い造形になったのか。そのことを疑問に思っていたが、少しだけその理由が見えたような気がした。

個人的な見解なので、一つの仮説として読んでもらえればいい。

 

縄文人は、狩猟民族である。

生きていくためには、動物を殺し、木の実などをいただく。

それらは、食料として自分たちの命を繋いでくれる大切な存在だ。

そして、それらを調理する道具として土器があった。

調理=儀式

という仮説が浮かんでくる。

だから、呪術的な想いや願いを込めて土器に様々な文様を施し、自然から頂戴する命に感謝や畏怖の念などを表していたのかもしれない。食べることの許しを得るために特別なエネルギーを込めた道具で調理をする。その道具は、まるで特別な儀式が行われるブラックボックスであるかのように。

いくら時代が変わっても、食事という行為は変わらない。それなら今現在、私が食事をいただく道具としての器を作るときにも同じことが言える。

食事をする=命をいただく

その器で命をいただく。ならば、その器にもおまじないのようなエネルギーの文様を刻み、ブラックボックスのような役割を与えることによって、「食事をする=命をいただく」をより意識的に実感でき、毎日の食事に対して感謝ができるのではないだろうか。

 

しかし、読み進めていくと、ル・コルビジェの言葉が紹介されていた。

「今日では装飾された品が、百貨店の売り場に溢れており、廉価にミディネットに売られている。安く売られているということは、この場合とりも直さず製造の粗悪、装飾による欠点の隠蔽、使用材料の劣悪を意味する。つまり装飾が擬装したのだ。」

 

安易に器に模様を彫ろうと思った考えが、見透かされているように、この言葉が胸に突き刺さる。装飾を軽く考えてはいけないと釘を刺された感じだ。

 

〔 269ページのうち61ページまでの感想文 〕

まだまだつづく…

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