いつからだろう。
ジャコメッティに興味を示し始めたのは・・・

 

ほんのすこし前までは、「細い彫刻の人」くらいの知識がなかった。
今年、ジャコメッティ展が開催されるという情報が頭の片隅のどこかで引っかかっていたのかもしれない。
でも、以前までなら「行きたい!」とは思わなかったと思う。

 

しかし、今は違う。
図書館でジャコメッティの作品集や書籍を借りてきている。
そして、彼に魅了されている。

 

作品集には、ジャコメッティ語録と言えるような言葉があり、それらが次から次に頭の中を攪拌してくれる。

 

そのいくつかを紹介したい。

 

「私が幸福なのは不可能なことを試みている時、そしてそれが非常にまずしくしか進んでいない時だけである。」「簡単にそしてうまく進み始めた途端、それはもはや私の関心を全く引かなくなる」

 

「モデルに近づけば近づくほど、それだけますますモデルは後退していくことを知りながら、続けるのである。私自身とモデルとの間のへだたりはだんだん大きく、絶えず増すものであるようだ。それは終わりなき探求である」

 

「仲間の学生たちは大きなかたまりを積み上げて作っていたが、私にはモデルは一本の糸みたいに見えた。いつ面をつけて作ってゆくのかと、教師は何度もたずねた。そんなことは不可能だった!」

 

「彫刻は、だんだんますます小さなものになってゆくので私は恐怖をおぼえた。小さい時にのみ、生にとって真実なのだった。・・・おびただしい数の細部だけしか識別できなかった。全体を見ようとすると、モデルはどんどん遠ざけなければならなかった。そして、遠くなればなるほど、頭部はますます小さくなって、それが私を怖れさせた。ものが消滅してしまう危険があったのだ」

 

ポケットから取り出した六つのマッチ箱の中には、何年かの作品が全て入っていたのだ。「もううんざりだった!1インチばかりの小片も自分の彫刻を小さくさせないと誓った。それから、また別のことが起こった。高さは本来のままの高さを維持しえたが、どれもみんな実に細くなってしまったのだ。引き伸ばし、細くした時のみ、実物に似てくるのだった。

 

「もし私があなたを正面から見ると、横顔を忘れる。横顔で見ると、正面の顔を忘れてしまう。あらゆるものが不連続となる。核心はそこのところにある。私は全体をとらえるところには決してたどり着かない。・・・」

 

「ある日、私は彫刻を一点、展覧会に持っていくところだった。片手でそれを持ち上げて、ずいぶん軽いなと気付きながら、タクシーの中に置いた。持ち上げるのに屈強な男性を五人も必要とするような等身大の彫像には、私はいつも本当のところをいうと苛立たしい思いをしてきた。なぜ苛立ったかというと、街路を歩いている一人の男はそんなに重くはないし、同じ人が死んだ場合の重さはずっと軽いことは確かだったからである。私が無意識のうちに手に入れようと努めていたのはまさしくこの重量のなさということだった」

 

これらの文章から、恐ろしいほどの探究心や哲学的思想が伺える。

 

私たちが「なんだかそんなふうに見えるかもしれない」と思えるギリギリのところのせめぎ合いをしながら、作品作りをしているように感じる。
彼の作品は、一瞬でわかるような写実感がないからこそ、対峙した時にあらゆる角度や距離などから作品と対話しなくてはならないのかもしれない。だからこそ、こちら側も気を抜けないし、とても疲れそうな気がする。
絵本ではなく、推理小説を読み解くように

 

どこか円空仏にも似ているような気がする

 

 

そして、偶然なことに、今現在、ジャコメッティのふるさとであるスイスのお客様からお箸の注文を頂いている。

「ジャコメッティ展」2017年6月14日(水)~9月4日(月)国立新美術館

巡回展 2017年10月14日(土)~12月24日(日)豊田市美術館

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