私はいつも、出張する時には、図書館で本を借りて宿泊先で読んでいる。出張中が仕事から強制的に引き離される唯一の時間かもしれない。

いつものように本を探していた時に、先日、実家の法事で、器の絵付けをしている親戚のおじさんが「器はカタチが全てだ。」と熱弁していたのが記憶の片隅に残っていたらしく、器の本に手が伸びていた。

「原色日本の美術 陶芸」と「原色日本の美術 請来美術(陶芸)」という大型本の図鑑は何度となく見てカタチの勉強はしてきたし参考にしてきた。なぜ、それらの器がなぜ国宝と呼ばれるのか高さ・高台の大きさ・直径などの比率も実際に参考にして器を制作もしたことがあった。しかし、それらはカタチをなぞっただけに過ぎず、本質に至ってはいなかったことをこの「名碗を観る」を読んで痛感した。

名碗がなぜ名碗たるのかを器の背景やカタチ、バランス、景色などを解説したとてもわかりやすい本だった。

しかし、この本で紹介されていた名碗は、茶道のお茶を飲むための器として紹介されていたので、私が制作するお椀とは異なることは理解しておかなくてはいけない。

だが、お茶を飲む器であろうが汁椀であろうが飯碗であろうが、器のバランスには普遍的なものもあると思われる。その要因として手にした時の重さや手の収まり、口縁の厚みや反り、見込みの深さ、高台の形やバランスなどそれらがうまく調和し、普遍的なバランスに収まった時に人の心を揺さぶる名器になるのかもしれない。

これらを満たす器を作り上げるには、実際に出来上がったものを使ってみて、手の感触、重さ、口当たりなどを吟味し、自分の思い描く理想の感覚に少しずつ擦り合わせていく作業になるのだろう。木工よりも焼き物でのこの作業は、はるかに難しいことなのかもしれない。

私も、これから長い年月をかけて理想とする器を追い求めていくことを楽しんでいきたいと思うようになった。

見て美しく、持って心地よく、口をつけて感動する名椀を求めて


私が、この仕事を始めて8年が経つ。

始めた頃の気持ちを持ち続けるのは難しいが、いつも自分が戻る場所〈核〉を意識している。
そこからズレなければ、うまくいくという不思議な感覚がある。

これまでは、がむしゃらに意識を外に向けてアンテナを張りめくらし自分の土台を固めていたような気がする。
しかし、少しずつ環境も変化してきた。

そろそろ吸収することから、発信することに移行していく時期になってきたような気がする。
蓄積してしたエネルギーを、より発展させ高めて磨き上げる。
その転換期となる大きな節目になりそうな予感がしている。

今年は、この仕事を始めた頃から改良を重ね進化し続けてきた愛bowを「国際福祉機器展」で発表する。
クラウドファンディングを利用して、たくさんの支援者の力を借りて、背中を押してもらい、
次のステージに立つことができることに本当に感謝している。
もう、私一人だけの仕事ではなくなってきた。

ひとりでがむしゃらに頑張ってきた時期から、複数の人で進めるプロジェクトも増えてきた気がする。

私は仕事の未来を思い描ける時期と、
先がどうなるのか想像もつかない不安とわくわくの時期が、
交互にやってくるのだが、
今は後者の方である。

この展示会を終えたあとには、どんな未来がひらけているのか
まさに想像もつかない。
もしかしたら何も変わらない日常なのか…

今、未来へのその扉に手をかけて、たくさんの方に背中を押されて開こうとしている。

どんな結果になろうとも
未来は続いていくのだ・・・

読書の夏である。
まだまだ、出口の見えない迷宮を彷徨っている。
多くの芸術家の声に耳を傾けても、解決の糸口すら見えてこない。
そう簡単に求める答えが見つかるとは思ってもいないがけれど

前回読んだ本と一緒に、借りてきた猪熊弦一郎さんの本。
まだ、猪熊さんの美術館へは行ったことがないが一度行ってみたいと思っている美術館の一つだ。

なぜ、このタイミングで猪熊さんに引かれたのかは、間違いなく子供が生まれたことにあるだろう。
たまたま見つけた絵本『いのくまさん』(絵・猪熊弦一郎/文・谷川俊太郎)
この人のことを知りたい。その好奇心から手に取った本が今回の本だった。

その本の中で心に響いた文章を抜粋して紹介する。
 
〈猪熊さんが長年憧れ続け、目標にしていた「子供の絵」。といっても、それは本当の子どもが描く絵のことではありません。一人の画家が、描いて描いて描き続け、すべての技術を会得したあとにはじめて到達する、全く新しい天衣無縫の美。それは、子供以上の子どもとでも言うべき永遠の境地です。〉

私も同じように思っていた。私が作る彫刻も細かく観察して精密に作ることができて初めて、その形のその奥にある本質が捉えられるのではないか。そうして自分のフィルターを通して見える作品が表現できると思っている。オリジナリティーはそれから生まれてくると。

〈アートとはその時代の答えであると同時にその人自身の答えでもある。だからこの場所は、これから未来に向かって芸術家がいかに新たな道を切り拓き、今ここにないものを新しく発見していくかという、一番大切でかつ難しいことの結果を見せる美術館であり続けなければならない。〉(自身の美術館について)

〈画家が素直に自分自身を出せば、人とは違ったオリジナルの絵を描くことができる。しかし人間には欲があるからどうしても描きすぎる。こころで描かずにテクニックに頼ってしまう。〉

テクニックというのはとても便利で頼ってしまうものだ。それの魔力に取り憑かれないように、オリジナルを表現するための引き出しとして準備するくらいがいいのかもしれない。

〈たとえば散らかった狭い部屋。一脚の椅子をまっすぐに置いてみるだけで、そこに秩序が生まれ、部屋全体の印象が変わる。このように混乱に秩序を与えることで新しい美が生まれてくるという考え方です。〉

とても面白い考え方で興味深い。
日本らしい考え方ならば、綺麗に整頓されて部屋では息苦しいから、少しの緩みがあった方が落ち着くとなるはずだが、逆になっている。散らかった部屋の一部を整えることで新しい美が生まれるらしい。なんとなくわかるような気がする。

猪熊さんの「天衣無縫の美」という言葉がとてもしっくりくる。
私もこうありたいと切に願う。

先日もブログに書いたように、今自分の内側を覗き見て、答えを導き出すことはまだまだできないのだが、客観的に認識したいと思っている。
箸づくりの方は、想いや目指すところははっきりしている。宮保克行として木工デザイナーとしてはこれも、おおよそ把握はできているつもりである。しかし。木工作家としての宮保克行としては何をしたいのか。何を表現したいのか。なんのためにものを作るのか。それを確認して見たくなった。

その呼び水として、芸術家の考え方や信念、目指しているものなどを知りたくなった。
そこに、ヒントがあるような気がして

図書館でたまたま手に取った「美術家たちの証言」とても興味深く読ませていただいた。
故人のことを評論家や誰かが研究や憶測で述べているものではなく、本人の口から、または手で書かれた生きた言葉を読みたかった。

この本の中で今の自分に引っかかった芸術家の言葉を紹介する。

高村光太郎
芸術作品には何か真面目な要求ー私はこれを詩というーが必要だ。

安井曽太郎 
自然をよく見て学び、形、色、線の組み立て等を取り入れることをやっている。

篠田桃紅
「よめないけれども美しい」読めればその文字なり、文字の内容が折角の純粋な視覚の感動に立ち代わって来るでしょう。
主体は文字ではなく、書く人の精神なのですから、文字は表現の造型状上の材料に過ぎなくなります。

棟方志功
目をつぶっても三角刀ひとりでに動き出すようにならなければ駄目です。
「よさばかりでなく、自分の臭味や欠点もさらけ出しながらそれが逆に魅力とならなきゃいけないと思うのです。」

浜田知明
あまりに抽象化することは見る人に描かれたモチーフへの手がかりを失わせ、作家の意図を曖昧にしてしまう恐れがある。
ひたすらに自分に誠実であろうとすることだけが私の支えであった。

志村ふくみ
全く自由に見える一本の糸もその元をたどれば、宇宙の根元にしっかりと結ばれていなければ、みるものに確固とした実在感を与えることはあり得ない筈である。優れた作家の仕事は、鋼鉄のようなロープの起伏やうねりの中に制作者の哲学がひそむのを感じ、無数に立林する直線や斜線の糸の交錯の中に繊細な室内楽を聞く思いがする。
仮に伝統の城に安住し、人工の粋をきわめ技巧に身を固めた仕事を前者とすれば、人間の心理や情緒をさかなぜするような特異な衝撃のみをあたえる仕事を後者といえるだろうか。

川俣正
現代美術に多くの観客はいらないというのではなく、もともと分かち合えないものとしてあるということを前提として、そこからどのくらい現代ということのシンパシーを感じ得る人達が現れてくるのかということ。
この暴力的な消費社会の中において美術のフィールドに限らず表現の場そのものを自分の中で一つの表現ファクターとして考えることから始めない限り、この大きな消費のサイクルの中で個人の表現というものが上滑りしていかざるを得ないのではないかという危機感をどこかで感じているからである。

野見山暁治
人間ですから、自分の目で見たことのないものを描くわけがない。私がどんなに世の中にないものを描こうとしても、どこかで見たものの寄せ集めでしかないんです。見たものを描きながら、実は、神様がいろんな世の中をつくったり、動物や人間を作ったりしたように、人間だって画面の上に、自分の好きな風景や自分の好きな動物をつくってもよろしかろうと。

では、私は何がしたいのか。自問自答してみる。
私の興味の変遷を思い出してみた。
仏教 → 禅 → アイヌ → 縄文 
どんどん原始的なものに惹かれるようになってきたのだろうか。自然や宇宙の真理の探究なのか。
人で興味を持ったのは、ゴッホ・棟方志功・円空・鈴木大拙・ジャコメッティ・宮本武蔵・片岡球子・岡本太郎・スティーブ・ジョブズ・パッチ・アダムス。そして、クラッシックのboleroも好きだ。
これらから見えてくるのは、間違いなくエネルギーだ。私はエネルギー溢れる強烈な個性に惹かれるのだ。

強烈なエネルギーの作品を作りたいと思う反面、静寂で無感情な作品を追求する自分もいる。
作品のテーマとしてよく用いるものは、月と太陽、裏と表、ぐるぐる文様、無意識、偶然

今は、その瞬間に作りたいと思うものを自分に正直につくっていきたい。
その先に集約されるなにかを楽しみにしていきたい。

国際福祉機器展に向けてどのようなブースに作り込むかを知人のデザイナーと考えている。

まず最初に、最終目標を確認する。
 〈最終目標〉箸を必要としている人に届けて食事をサポートする。喜んでもらう。

最終目標から順番に遡って考える
喜んでもらう ← 使ってもらう ← 買ってもらう ← 選んでもらう ← お店やカタログで紹介してもらう ← 愛bowの機能やメリットを理解してもらう ← 存在を知ってもらう

愛bowの知名度は、まだまだ知られていないのが現状である。

今回の展示会では、いかに多くの来場者に愛bowの機能を知ってもらえるかが重要なポイントである。

そのためにどのようなブース作りが必要なのかを、文章におこしながら頭の中を整理し、客観的にシュミレーションしていく。

人の判断時間は3秒と言われている。
その一瞬でどれだけ心を動かすことができるか。

来場者がどんな情報を求めているのか。
どんなことに興味を持ってくれるのか。

昨年の国際福祉機器展の来場者アンケートの結果をみてみると、
来場の目的は?
利用する製品を探す。52.3%
福祉機器全般を知るため28.2%
「デザイン性の高いものがもっと出てきてほしいと思います。」
「介護される方が申しわけなく感じないものを開発してください。」
(参考意見抜粋)

どのような製品をお探しですか?
日常生活支援用品(自助具、介護関連用品など)7%
「福祉機器は実際に見て、触れて、体験してみないとわからないことが多いため、それができて満足です。どの企業の方も詳しく話してくださって良かったです。」

以上のことから、推測して「使いたいと思える製品がないかを探している。」「新しい製品を体験してみたい。」が来場者の目的として考えてみることにする。

では、愛bowの新規性や他社にない強みは?心惹かれるポイントは?
 デザイン・機能
 プレゼントとしての位置付けも考えられる。

市場に流通している商品に欠けている要素は?
 デザイン・満足感・使いやすさ

ターゲットは?
誰がこの箸を使うのか、どんな人が使うのか?
 見た目にこだわる人・自然派・高級志向の個人のユーザー・ハイセンスな人

どこにどう売りこめば効果的か?
 高級型の介護施設、個人、百貨店、介護用品売り場、病院、セレクトショップなど

この箸によってどんな問題が解決できるのか?
  これまでの箸では使えなかったユーザーの問題←形状や機能、握力など
  介護者の負担、使用者のプライドや満足感・精神面

キーワードが絞れてきた。
「デザイン」「高級感」「プレゼント・ギフト」「満足感」

これらのキーワードから、来場者の心を動かすブースのイメージを探っていこう。
今日はここまで

次回は箸factory宮bowとしてのブランドイメージについて再確認と再構築してみよう。

最後に「アップルのデザイン」という本を読んで心に残った文章を書き記しておく。

顧客とのあらゆる接点をデザインする。 
商品の存在を知り、商品を買いに行き、実際につかって生活する。その全ての場面で消費者が得る一連の体験を丹念に作り込み、いかなる場面でも顧客を迷わせず、がっかりさせす、そしてそのうえで顧客の予想を超えるようなサプライズを用意する。
素人にもわかる範囲のセンスの良さにとどめる。