それぞれを掘り下げて考えたことがなかった。

インドに旅行したときに、現地の青年が「俺は、ムスリムを信仰していてコーランを信じている。お前はどんな宗教を信じて、何を読んでいるんだ?」そう聞かれて、困った覚えがある。もちろん、英語であまり表現出来なかったこともあるが‥…

かたちの上では、仏教なのだろうが、生きていくよりどころではない。日本人若者の多くはそうではないだろうか。
同じ屋根の下に神と仏が一緒に祀られていたり,神社と仏閣が廊下でつながっていたりする日本。
神道と仏教が一緒に混在している。

今更ながら、神と仏の違いを調べてみた。

以下、参考文献より抜粋して要約

日本における神は,主に自然物を御神体として,農耕民族として季節の順調な運行や五穀豊穣を祈願する対象なのに対し、宗教は、病苦や死の恐怖からの救済,解放を祈念する対象とされてきた。
宗教とは,もともと絶対的なものの存在を信じそれに帰依すること。したがって、仏教も神もともに崇拝するということは矛盾する。仏教が伝来した当時は、仏教を宗教とは考えていなかったという。
確かに当時の仏教は,鎮護国家の役割の面が強く,単に外国のような国家建設のために組み込まれるべき道具,すなわち,国家として一定数の僧を擁し,彼らに祈願,祈祷させることにより,病疫の蔓延を防止し,国家の秩序を維持するもの,と考えていたと言えないこともない。
あるいは,仏教は,学問の対象であって,異国文化の一つに過ぎない,従ってこれを受入れることは神を祀ることと矛盾しない,との理解があったとも考えられる。

古来から,日本の各地で様々な山,海,岩,湖等を御神体として,祈願がなされてきたが,密教は,山の奥に深く踏み込むことが多く,各地でこれらの神の存在と衝突することになった。
そこで仏が神に姿を変えて衆生の前に現われるとする「本地垂迹説」が唱えられ、日本の神々も神仏習合及び本地垂迹説により権現(ごんげん)と呼ばれ、護法善神に取り入れられ、祀られるようになった。そのため狭義では密教の高僧や修験者に随って守護し、また聖俗の両界にわたって使役される神霊や自然の精霊をも指していわれる。このようにして、神と仏の融合が試みられることになり,神と仏の対立は回避され,神と仏の習合は長く続くことになった。

それならば、海外ではどうなのだろう。
日本の神道の神々と同じようにギリシャ神話に登場する神々。
仏教のブッダとキリスト教のキリスト。

ギリシャ神話は昔話でしかないのか。信仰の対象になっていないのだろうか。

円空さんの作品にも仏像もいれば、神像もいる。僧侶でも神様を彫る。

神様を祀る神社。仏様を安置する寺院。

天照大神の神像で有名な作品は知らない。
その理由は、鏡を御神体として祀っている神社が多と思うが、天照大神が「鏡を私と思いなさい。」と教えたかららしい。どんなものにも姿を変えられるということか。

木に彫るということ自体、もうすでに神様と仏様が合体しているのかもしれない。

そういえば、船越桂の作品も最近は天使をモチーフにしているものも多いらしい。

なんだか、この世界は深く考えない方が良さそうだ。

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