15年の歳月は、赤ちゃんが中学3年生になる長さだ。
こうして、今も箸職人として仕事をさせてもらえていることを本当に嬉しく思う。振り返ってみると、ひとつひとつの奇跡的な出会いが紡がれて、今のMiyabowがあることを再認識させられる。
今まで、この仕事を始めたきっかけのことを書き記したことがあっただろうか。
Miyabowの原点の話を改めて綴ることにする。
小さい頃から工作が大好きだった。幼稚園でトランスフォーマーのコンボイを牛乳パックで作った。その出来栄えの高さが先生方を驚かせたのを覚えている。
実家の隣りが、石川県の伝統工芸品に指定されている「美川仏壇」の工房だった。小学生の頃は、そこの廃材置き場にこっそり忍び込んで、罰当たりと言われるかもしれないが、仏壇のパーツをプラモデルのように組み合わせたり、分解したりして楽しんでいた。今思えば、この時からもう木工の世界へと足を踏み入れていたのかもしれない。
中学生の卒業文集では、恥ずかしげもなく「夢」を語っている。それもふたつもの夢を。
そのふたつの夢は、「人間国宝になる。」と「発明家になる。」
しかし、この言葉として書き残したことが良かったと思う。それからの人生を歩んでいくときにも、この卒業文集に書いた夢たちが頭の片隅にずっと居座っていたのである。言い方を変えれば、その夢たちに縛られていたとも言えるが、なにか選択する際に、この夢たちが役に立っていたのは事実である。
大学進学を決めるときにも、夢たちが訴えかけてくる。進学校だったこともあり、大学へ行くことが当然のような環境だった。そんなとき、偶然見つけた国立の短期大学に木材工芸を学べる学部があることを知った。
センター試験を受けることなく、推薦入試で高岡短期大学産業造形学科木材工芸専攻(現富山大学芸術文化学部)に進学が決まり、こうして、木工の世界の門を叩いたのだった。
今で言えばインターンシップということになるのだろうが、当時は就職前に現場で働くことは皆無に等しかった。そんななか、大学二年生の夏休みから卒業まで家具工房で働かせてもらっていた。大学では学ぶことができない現実社会の仕事のスピード、コストや納期のことを学ばせてもらえたことは大きかった。
そのまま、その家具工房に就職した。が、3年で転職することになる。
コストのことを考え納期に追われる日々のなか、「これが夢見ていた木工職人像なのか」という押し殺していた本心が顔を出してきた。心の片隅に追いやられていた夢たちは、肩身を狭くしながらも必死に訴えかけてきていたのだと思う。
木工を仕事として、心から楽しんではいなかった。これからは、趣味として楽しんで木工を続けていこうと思い、まったく違う世界の仕事に就くことになる。
「本当に好きなことは何か?」
お酒が好きだった。特に日本酒に強い関心を抱いていた。酒造りの世界に飛び込む覚悟を決めた。ただ単純にお酒が好きだったという理由だけではないということを付け加えておこう。
ここでも、夢たちが八咫烏のように導いてくれた。もしかしたら、日本の国酒であるお酒づくりを極めれば「人間国宝になれるかもしれない。」そんなことをなんの根拠もなく思い描いていた。好きなことを続けていけば、努力すれば夢に辿り着けると真剣に考えていた。
職人の世界への憧れもあり、酒づくりの仕事はとても楽しく充実していた。
酒づくりは、冬場の仕事になる。そのため、冬に貯まった休みを夏に消化するという特殊な勤務形態だった。酒づくりの期間は、1ヶ月の半分は酒蔵に泊まり込み夜中も作業をする。休みは月に2回ほどだった。それでも辞めたいとは思わなかった。酒蔵の仕事は、もうひとつの大きなメリットを享受することができた。それは2ヶ月近くある夏休みだ。まさか、社会人になって夏休みがもらえるとは思ってもいなかった。
その持て余す夏休みを利用して、趣味の木工を続けていた。
酒蔵に勤めること7年。その間も細々と作品を作りながら、クラフトフェアなどに出店していた。当時の私は、環境問題に強い関心を持っていた。作品も箸やスプーンなど「マイ箸」を意識したものが多くなっていた。
私が作っていた箸は、普通のまっすぐな二本の棒ではなく、ぐにゃぐにゃと曲がった箸が多かった。
なぜ、曲がっていたのか。その理由は、マイ箸として実際に持ち歩いて使ってもらいたかったからだ。世の中「マイ箸!マイ箸!」と叫ばれていても、実際に持ち歩いてお店で使っている人はほとんどいなかった。それならば、持ち歩いて使いたくなる箸、他人に自慢したくなる箸を作れば、持ち歩いてくれるかもしれないと思っていた。
こうして、様々な形の箸を制作していた。持ちやすさや使いやすさを考えて作った箸もあれば、どうやって持てばいいのか分からない箸もあった。
「100人いれば100通りの使いやすい箸がある。」そう思い至り、100膳の箸を並べて、お見合いパーティーのように、自分に合った箸との出会いを楽しんでもらう個展をすることにした。
この個展が私にとって、人生を変える大きなターニングポイントとなった。
初めての個展は、ありがたいことに多くのお客さんが来場し、箸を手にしてくれた。しかし、全ての箸が完売したわけではなかった。残り半分ほどの箸を、次のクラフトフェアで販売することになった。そこで、偶然出会ったお客さんに「もしかしたら、この箸なら私の友人でも使えるかもしれない。」と言われ、連絡先を交換した。
後日、そのお客さんから本当に連絡が来た。
「今度、君のところに友人を連れていくから、お箸を見せてあげてほしい。」
その人は車椅子を押して、ひとりの脳性麻痺の男性を連れてきた。その男性は、並べてあった全ての箸を手に取り、使いやすさを確かめた。熟慮のすえ、その中の1膳を選んで買っていってくれた。
しばらくしたある日、また連絡がきた。
「普通の箸よりは、使いやすそうにしている。でも、やっぱりまだ使いにくそうにしている。」そう言われた。
「それなら、オーダーメイドでその男性のための箸をつくりましょうか。」
この一言から、箸職人としての第一歩が始まった。
初めてのオーダーメイドでの箸づくり。まず始めに、一緒に食事をすることにした。どうやって箸を持つのか、どんなふうに箸を使うのか、実際に食事風景をみさせてもらい、どんな箸にすればいいのか考えることにした。
その男性は、握りしめるように箸を持ち、箸で食べ物を持ち上げるのではなく、お皿に顔を近づけて、口の中へかき込むようしてに食事をしていた。
私はそれまでは、箸の持ち方が正しかろうが悪かろうが、二本の棒で食事ができない人がいるなんて想像したこともなかった。その光景を目の当たりにした時に、大きな衝撃を受けたのを今でも鮮明に覚えている。
しかし、実際に一緒に食事をしても、具体的な箸のイメージが掴めなかったのが正直なところだった。とりあえず、自分なりの知識と経験で試作品第一号を完成させ、男性の施設へ向かった。試作品を実際に持ってもらい使ってもらう。修正する。それを繰り返す。まさに二人三脚の作業だった。そして、少しずつ完成へ近づけていった。完成までには、4回ほど男性の施設へ足を運んだと思う。
ついに、初めての「だれかのための箸」が完成した。これまでは、自分のエゴを押し付けるように、誰か一人だけの手に合えばいいと思い作ってきた箸だったが、ひとりの人に寄り添い、その人のためだけにつくる箸という、全く真逆の出発点から生まれた箸となった。
初めてのオーダーメイド箸は、今の私から見ればお粗末な出来だったが、根本的な部分は、今とほとんど変わらないのが不思議に思えてくる。その箸は、二本の箸が竹のバネでピンセットのようにつながっている。親指と中指で箸を挟むように持ち、人差し指の動きで箸先を開閉できるように作った。
いよいよ、できあがった箸を使って、一緒に食事をすることになった。男性と一緒に食べたのはお刺身定食。これまでは、お皿に顔を近づけるようして、かきこむように食べていた男性が、箸で刺身を一切れをつまみ、醤油の入った小皿にその一切れをつけ、かがむことなく、そのまま口までお刺身を運んで食べた。
目の前で起こった奇跡とも思えるような光景を、見た瞬間に目頭が熱くなり、涙が込み上げてきた。その時に「自分がやるべき仕事はこれだ!」と確信した。
これまでの人生で磨いてきた技術、積み上げてきた経験は、この仕事をするためだったんだ。そう思えた瞬間だった。
これまで、家具工房、お酒づくりと仕事をしてきたが、「本当にこの仕事は自分がやりたいと思っていることなのか?」よく禅問答のように自問自答を繰り返してきた。いつもこころの奥底に、なにかひっかかりがあった。それを隠すように自分に嘘をついて、自分自信を肯定していた気がする。しかし、目の前で起こった奇跡は、こころのひっかかりを綺麗に流し去り、よどみの原因を取り除いてくれた。
「世の中に、箸が使えなくて困っている人がまだまだたくさんいるに違いない。」そう思えた時、仕事をやめる覚悟が決まった。
「これからは、箸で困っている人のために箸を作る。」そう決意した。
食事を終えた男性から「これで、これからはごはんをおいしく食べられます。ありがとう。」
その一言で、箸を作ってきたこれまでの苦労は全て吹き飛んだ。そして、それ以上にだれかのために何かを成し遂げる喜びを味あわせてくれた。
「自分の持っていいる技術で、世の中の役に立てる。」
その次の日には、勤めていた酒造会社に辞意を伝えていた。
しかし、新しい道を歩むことを応援してくれる人は、ほとんどいなかった。「絶対、成功するはずがない。」「箸を作って生活ができるわけない。」「このままいけば安定した人生を送れるのに。」しかし、若気のいたりと言えばそうかもしれないが、一切の不安や迷いは不思議と全くなかった。
「世の中の誰もが納得するような、常識的な考え方をしていたのでは、新しいものなど作り出せはしない。」
「人から批判されることを恐れてはならない。それは成長の肥やしとなる。」
「世界が必要としているものを見つけ出し、それを発明するのだ。」
これらは、発明家トーマス・エジソンの名言である。私が中学生の時に書いた夢もうひとつの夢「発明家」の言葉だ。
中学生の自分に「人間国宝」と「発明家」の夢は、この人生の延長線上にあると胸を張って言える。
家具職人、蔵人とバラエティに富んだ経歴たずさえ、満を時して2010年30歳の夏に福井市でMiyabowが産声をあげた。
10年目には、定番の福祉用箸「希望の箸」「みんなの箸」を完成させた。開業時から試行錯誤を繰り返してきた。医学の専門書で、手の骨格や筋肉、手の運動学を勉強し、お客さんからの声を聞き、改良に改良を重ね10年の歳月をかけて、ようやく納得のいくものに仕上がった。
15年目を迎え、これまでを振り返ってみると、本当に運が良かったといえる。多くの方に支えられてきたこと改めて実感する。
これからも、ひとりでも多くの箸を必要としている方に届けていく。
「もう一度、箸でごはんが食べたい!」その気持ちを諦めない人のために、全国どこへでも駆けつけていく。