これまで何度も愛bowのモデルチェンジをしてきた。その度に、気になる部分を改良し発表してきた。新しいことに挑戦し、問題を解決してきたつもりだ。

しかし、「コストがかかりすぎる。」「精度がでない。」そんな理由を言い訳に、技術的あきらめていたことも少なからずあった。

だがようやく、10年の歳月をかけて経験してきたこと、自分の技術が向上したことで今回の箸では、それらの問題を解決することに挑戦し、乗り越えることに成功した。

間違いなく歴代最高傑作である。

今回は、Miyabow専属作業療法士の力を借りて、試作品をドクターや医療関係者に実際に手にしてもらい、専門家の意見を聞かせてもらった。それらの意見を集計した報告書をもとに、試作品にフィートバックし、最終的な完成形に辿り着くことができた。医療現場は、コロナウィルスの影響で忙しいにもかかわらず、協力してくれたみなさんに感謝したい。

完成形に至るまでに様々な形状を試作し、握り具合や使いやすさを検証した。

左の2膳が緑色の箸が最初の試作品。
残りの赤い色の箸が報告書をもとにした試作品の数々。

ようやく、完成した箸は、これまでの箸より美しく、使いやすく、軽く、丈夫な箸に生まれ変わった。

そして、商品名も「愛bow」から「希望の箸」へと改称した。

箸を諦めていた方々の最後の希望になることを祈って。

現在2歳2ヶ月の娘が、箸で食べ物を器用にはさみ食べられるようになった。

この箸というのは、二本がつながっている矯正用の箸ではなく、大人と同じような二本の棒の箸のことである。まだ、正しい持ち方とまではいかないが、箸職人である私としては嬉しい限りである。

世間一般では、3歳頃から箸を持たせ練習させるケースが多いようである。しかし、我が家では、2歳を過ぎた頃から食事の時にはスプーン、フォークと一緒に箸を並べて置くようにしていた。

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箸作りの仕事をしていると「子供が正しく持てるようになる箸はありますか。」とよく質問される。これまでは返答に困っていたが、ようやくこの質問に対する答えの本質を見つけたような気がする。

私はこれまでに、初めて赤ちゃんが自分で使う「はじめての匙」、幼児食を自分で食べる「こどもすぷーん」「こどもふぉーく」などを、自分の娘にモニターとして試作品を使ってもらいながら形状や大きさを研究して製作してきた。そして、スプーンの次の段階となる箸作りに取り掛かった時も同じように数種類の試作品を手に取ってもらい、観察させてもらった。娘にとってはいい迷惑だったかもしれないが…

いつも、となりで食事の様子を観察してきた私の「箸を上手に使えるようになるための道のり」を紹介していきたいと思う。

結論から言わせてもらうと、

「箸だけでは箸を上手に使えるようにはならない。」

この考えに至った理由は、これまで幼児期から取り入れきたモンテッソーリ教育が大きな影響を与えていると確信したからだ。

決して、モンテッソーリ教育を推奨しているわけではない。ただ、これまで娘が経験してきたモンテッソーリ流の遊びが箸づかいに大きな影響を与えているのは明白である。モンテッソーリの保育園に入学させているわけではないし、あくまで自己流のモンテッソーリ教育なのであしからず。

娘には、さまざまな遊びに挑戦してもらってきた。その中で、箸づかいに影響を与えたと思われる遊びをいくつか紹介する。

●ポンポン移し遊び [1歳2ヶ月頃から]

箸の前段階として、ピンセットの使いこなしが挙げられる。最初は、ピンセットではなく先の幅が広いシュガートングを使わせていた。シュガートングを使い、ポンポンボールを製氷皿の中に入れる遊びをした。慣れてきた頃に、シュガートングをピンセットに持ち替えた。この動作で、ものをはさむ・はなすを練習していた。

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●スプーンのステップアップ[1歳2ヶ月]

スプーンは、靴のように子供の成長に合わせてサイズを少しずつ大きくしていくのが好ましい。口の大きさの3分の2程度の大きさが目安と言われている。ずっと小さいスプーンを使っていると口を大きく開ける必要がなく、あごの発達が遅れるというのだ。そこで、我が家でも「はじめての匙」では、やや小さくなってきたのでひとまわり大きめの「こどもすぷーん」にステップアップした。

それぞれのスプーンの仕様

 角度すくう部分の最大幅長さ深さ持ち手の形
はじめての匙まっすぐ25mm105mm浅い楕円
こどもすぷーん角度あり33mm130mmやや深い三角形

私が作る大人用スプーンの持ち手の部分は三角形をしているものが多い。その理由として、持った時に美しく見えること、安定感があること、操作しやすいことが挙げられる。したがって、こども用のスプーンも持ち手を三角形にして製作している。そうすることで、最初に使う三角形の箸への移行がスムーズになるのではないかと思っている。

●トング形式の箸の練習[1歳6ヶ月]

先ほどのポンポン移し遊びをピンセットから、トング形式の食事用の箸に切り替える。

私の仕事は、手の不自由な人のための箸を作ることである。そのため、試作品や旧モデルのトング形式の箸がたくさんある。箸の練習になればと思い、トング箸を食事用ではなく、遊び用に使わせ始めた。

個人的には、つながったトング箸の使用は、大人形式の箸の上達の妨げになると思っていたが、意外にもこれが功を奏したようである。食事で使うトング箸を遊びで使うことで、つまむ楽しさをそのまま食事に持ち込むことができたと思う。これにより、食事での箸のイメージができるようになった

●トング形式の箸での食事[1歳9ヶ月]

この頃から、食事の時にはスプーン、フォーク、トング箸の三点セットをフランス料理店のように並べて好きなもの選んで使えるようにセッティングするようになった。

先に書いたように、遊びでトング箸に慣れていたおかげで、しばらくするとトング箸で器用に食べ物をはさんで食べる姿が見られるようになってきた。決して、箸を使うように強制したわけではないが、やはり大人が箸で食事をしているのを見て、自分も使いたいという思いが強くなってきたのだろう。そして、トング箸ではあるが食べ物をはさんで自分で食べられる喜びを強く感じると同時に、自信にもつながったのではないかと思う。

もし、このトング箸というクッションをはさまずに、スプーン、フォーク、大人箸という三点セットにしていたなら、箸づかいの難しさに苦手意識が生まれ、箸を敬遠することになっていたかもしれないし、箸で食事をすることを諦めていたかもしれない。したがって、トング箸も箸づかいの道のりには、かなり有効であることが考えられる。

●色鉛筆でのお絵かき[1歳9ヶ月]

鉛筆を正しく持つことは、箸をきれいに持てるようになることに直結している。なぜなら、可動させる側の箸の持ち方は鉛筆の持ち方と同じだからである。だからこそ、この色鉛筆を使ってのお絵かきはとても大事な遊びと言える。

ここで三本の指で正しく鉛筆を持てるように教えることが箸づかいを上達させる大きなカギになってくる。

●ハサミを使う[1歳11ヶ月]

子供用の小さなハサミで紙を切る遊びを始める。

ハサミは、トングのように握って閉じるだけではなく、開く動作も必要になってくるので、さらに指先の繊細な動きの練習になる。この動作ができるようになると道具を使うということがより一層上手になってくる。

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●三角箸を食卓に[2歳]

しばらく、食事の様子を観察していると、あまりにも簡単に食べ物をつまむので、このままトング箸に慣れてしまっては、大人箸を上手に使うことができなくなるのではないかと不安に感じていた。

そこで、2歳の誕生日に長さ14cmの三角箸をプレゼントした。それから、食卓にはスプーン、フォーク、トング箸、三角箸の4点セットが並ぶようになった。それからは、大人の姿を見て、スプーンを使っていれば、自分もスプーンを使いたがり、フォークを使っていればフォークを選び、箸を使っていればトング箸や三角箸をと、道具を自由に持ち替えながら食事をしていた。今では、自分の判断で料理に合わせて道具を選びを楽しんでいるようである。

箸に関して言えば、三角箸よりもトング箸の出番の方がまだまだ多いようであるが、2歳2ヶ月で、三角箸の方は、突き刺したり、握り箸ではなく、大人の持ち方で食べ物をはさんで食べることができるようになった。

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●まとめ

「箸がうまく使える箸はない。」

箸づかいの上達には、箸だけでなく、えんぴつ・スプーン・ハサミなど様々な道具を遊びをとおして使いこなせるようになることが近道だと言える。

したがって、これからは、「どうやったら箸がうまく使えるようになりますか。」と聞かれたら、こう答えることにする。

  • 箸の前に使うスプーンを正しく持てるようになること。
  • ピンセットなどではさむ練習をすること。
  • 鉛筆を正しく持てるようになること。
  • はさみで指先の細かい動きができるようになること。

付け加えるなら、トング箸もはさんで食事を楽しむためには使ってもいいと思うが、長く使いすぎると抜け出せなくなる可能性もあるので、使った方がいいよとは声を大にしてはいいにくい。

以上のことができるようになれば、矯正箸を使わなくても大人箸でも十分に良さそうである。

一般的には、正しい持ち方は、手への負担が少なく、疲れにくいと言われている。

そして、使っている姿が最も美しいのが正しい持ち方である。

ここ最近は、身に起こる全てが「今、このタイミングで出会っているように感じる。」それは、人であれ、出来事であれ、本であれ、景色であれ、モノであれ、そう思えてくる。

それは、今朝、読み終わった本。 本郷新が書いた「彫刻の美」を読みながら強く実感された。

この本に辿り着いた経緯は、今年の夏に遡る。

私が製作している手が不自由な人のための箸「愛bow」が福祉機器コンテストで最終選考に残り北海道でプレゼンすることになった。結果は残念ながら落選だったが、空いた時間を利用して美術館を訪れようと調べていたところ。

本郷新記念札幌彫刻美術館で「フィン・ユール展」が開催されていた。この時まで、本郷新の名前は、恥ずかしながら知らなかった。大学時代に家具を勉強していた時に、フィン・ユールの名前は知っていたので、その名前におびき寄せられるように美術館を訪れたのだった。その時の目的は本館であり、あくまで記念館は、共通券があったから入ったにすぎなかった。

本郷新の彫刻は、その力強い彫刻の外側とは裏腹に、内面にはち切れんばかりのエネルギーが詰まっているように感じた。

今、思い返してみれば北海道へは本郷新に会いに行ったような気さえしている。

北海道から帰ってきた私に、阿弥陀如来の仏像を彫って欲しいという依頼が舞い込んできた。これまでに、小さなものではあるが仏像は彫ったことがあったので、引き受けることにした。

阿弥陀如来について、図書館で資料を借りてきて勉強し、私が師のように仰いでいる「円空」の写真集も読み返して、私なりの阿弥陀如来を彫り上げた。

しかし、依頼主から、「私はこれから毎日、ご本尊に向かってお経を唱え、私が亡くなってからも、このご本尊に守ってもらう気にはなれない。」ともう一体、作ってほしいと言われてしまった。

そして、この「彫刻の美」を読むに至ったのである。

仏像に関する本を読んでも、依頼主の求めているものを作ることはできないと分かっていた。綺麗な仏像を望んでいるのでは決してない。求めらているのは内面からくるエネルギーに手を合わせたくなるようなご本尊である。

この本は、仏像を彫りあげるための勉強のために読んだものだったが、私に教えてくれたことは仏像彫刻だけではなかった。形が生まれる造形の根本をわかりやすく教えてくれる教科書のような本だった。

今、お茶の世界に興味あり、名品と言われる茶碗を勉強して写しを作ったり、参考にしたりして器を作ってきた。その理由として、名品と言われる茶碗を真似ることで、その名品たる所以を掴み取ろうと思ったからだ。

それら形状は、バランスや比率、間など感覚的なもの頼ることが多く、言葉で表現することが難しいと思っていた。

以前にルーシー・リーの本を読んだ時に書いたブログでも造形について書いていたが、その時は、非常にわかりづらい言葉で書いていたと反省したくなるほど、本郷新は、この「彫刻の美」の中で、私がこれまで感覚的に捉えていた基準を明確に言葉で記してあった。

ここからは、分かる人にしか伝わらないかもしれないが、私が造形で美しいと思える基準を本郷新の言葉で表すなら、

「量感」

ものが本来持っている物理的な肉付きと目に見えない実態を表現するために必要な肉付けといえるだろうか。

「比例」

比率のことである。頭と胴体比率、それは、子供、大人、人種、男女によっても違ってくる。

「釣合」

バランスのことである。目で見えるバランスももちろんだが、感情のバランスも表現しなくてはならない。

「動勢」

動きのバランス。上に動こうとする動きなら、それと対応するように下に抵抗する力が起こる。

「音律」

リズムを持たせる。彫り方や模様、間などで飽きさせない。音楽を奏でるように

「調和」

部分部分の調和。周りの空間との調和。

「空間」

周囲の景色との調和を考える。置かれる場所。目線。光の当たり方。

以上の言葉は、私がこれからの造形物を作り出す時の大きなヒントになることは間違いない。

この本で、私の心に響いた文章をいくつか紹介したい。

「肖像彫刻」

見た目だけ似ているといううわべだけの似かたをした彫刻は、彫刻としていつまでもねうちがあるとはいえない。肖像彫刻も幾百年かたつと、似ている似ていないはたいした問題ではなくなって、その人のほんとうのねうちや、その彫刻にあらわれているもののねうちがだいじになってくるから、いわゆるそっくりだというような似かたをしているだけでは、十分ではない。その奥にひそむ永遠の姿、表情の源に深くくいこんだものが、すぐれた肖像彫刻である。

「建築と彫刻」

どこからどこまで実用一点ばりで、装飾などまったく不要だとした近代建築の立場からいえば、外側に彫刻のたくさん取りつけてある、はなばなしい装飾のある中世紀の寺院や、パリの凱旋門などは建築ではなく、彫刻といった方が正しいかもしれない

この文章を読んで、私がつくり出したい作品も、単なる機能的な道具ではなく、彫刻のような日用品を製作したいと思っているのだと頭で理解することができた。

話はどんどん広がるが、この「彫刻の美」と一緒に見つけたもう一つの本がある。

「現れよ。森羅の生命 木彫家 藤戸竹喜の世界」

この本は、国立民族博物館開館40周年記念企画 アイヌの工芸品展の図録である。本郷新の言葉を借りるなら、この藤戸竹喜は、ものすごい量感の彫刻を彫る人である。そして、偶然にも、二人とも北海道の人だった。

本郷新の本が心の教科書ならば、藤戸竹喜の図録は私の実技の教科書と言える。

そろそろ、話を収束させようと思うが、この半年の間に起こった全ての事柄が、今思い返してみるときれいにつながっていたのだ。もちろん、その当時は、こんなふうにつながるなんて思ってもみなかった。

今、自分に起こるすべてのことがらは、今、起こるべくして起こっている。

初めての講演会が終わった。

石川県PTA連合会地区別研究指定発表会で記念講演をすることになっていた。来場者は、石川県の小学校の校長先生や教頭先生をはじめ、PTA役員だった。人数は約200名。そこで1時間の時間を与えられた。

今回の講演会の依頼は、小学校の校長先生になった中学校の担任からの話だった。私が取材されていたテレビ番組をたまたま見ていたらしい。そんな縁で、私に白羽の矢が立ったのだ。

正式に依頼されたのは、6月頃だったように記憶している。講演会は10月27日。約4ヶ月の執行猶予期間が与えられた。

とにかく、スピーチの本、プレゼンの本、話し方の本を何十冊と読んだ。そして、プレゼンや講演会の動画を何回も見た。

ある程度、プレゼンや講演会のことを理解した上で、台本を書いてみたら、これがすらすらと伝えたいことがどんどん文字として溢れてきた。ただ次々に浮かんでくる文字を記録しているのだ。この時の不思議な感覚は、よく小説家が「自分で考えているのではなく、誰かに書かされているようだった。」と言っているが、まさに、そんな感覚だった。文章の構成や、時系列、最後のメッセージまで自分で言うのもなんだが、意識して書いたわけではなかったが、よく書けていたと思う。

実際には、この後に、講演内容を何十回も推敲した。より伝わりやすい言い回しがないか。この部分を削った方がいいのか。この話題を入れた方がいいのか。それは、講演会の直前まで続いた。

講演自体はというと、最初は緊張のあまり使用するスライドを、最初の2、3枚動かすのを忘れていたが、その後は、落ち着きを取り戻し、自分でも不思議なくらい想いを乗せて話をすることができたと思う。

初めてにしては、うまくいったと自分自身を褒めてあげたい。

講演会は、初めての経験だったが、実は引き受けたあとは、ずっと後悔していた。当日、台風が来て中止になればいいのにと思っていた。うまくできるだろうか。内容はこんなので本当にいいのか。この4ヶ月間は、夜はずっと講演内容とにらめっこしていた。睡眠時間もあきらかに少なくなっていた。

しかし、今回、講演会を経験させてもらったことで、今まで踏み込んでいなかったジャンルの本も沢山読めたし、様々な動画をみたことで、いろんな人の考えを知ることができたことは本当に良かったと思う。

もし、次回があるなら、次は大人だけでななく、子供たちに夢のある話を届けてみたい。

そして、子供たちの何か行動をきっかけになれば最高に嬉しく思う。

                                                                                         

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

ルゥーシー・リィーといえば、高台が小さくラッパのように広がった形状の器を思い出す。これまで彼女の作品を見てもそこまで惹かれたことがなかったし、数ある作品の一つに過ぎなかった。だが、あの形状は不思議と記憶に強く刻み込まれているのだ。

今、私は自分が美しいと思えるフォルムの作品を生み出そうともがいている。そんな中、美しいフォルムを追求していくと、彼女の作品のような高台が小さい器になることが何度かあった。もしかしたら、記憶の奥底に強く刻み込まれたあの形状が無意識のうちに顔を出したのかもしれない。

不思議と美しい造形を追求していくとその線上に彼女がいるのである。

その理由は、この本を読んで納得した。

「… 釉も文様も、それぞれの特質を最高度に発現しながら、このフォルムの磨き抜かれた美しさを引き立てる__というよりもむしろ、フォルムと釉と文様とが渾然と一体になって、まさに陶磁器以外の何ものでもない一つの世界がここに作り出されているのである。」

「彼女は極めて多様で豊かな装飾文様を生み出すことができた。しかもその文様は、あくまで作品のフォルムに即しつつ、その表面を生気づけるためにほどこされていて、決して過剰に陥っていない。このフォルムが装飾を引き立て、装飾がフォルムを活かすという関係は、ルゥーシー・リィーの作品においては絶妙と言っていいほど見事である。」

まさに、この二つの文書は、私が美を意識して作品を生み出すときに、細心の注意を払っていることに他ならない。

私は器を作る時に、全体のバランス、高台の大きさと高さ、口縁の反りと厚み、装飾をどこにどれだけ入れれば良いかを考えている。装飾はとても重要な役割を果たしている。線一本をどこに入れるかによって、間延びしていた胴の張りに緊張感が出てくる。何本入れるかによって、線の上部と下部のバランスが大きく変わる。線の太さによって力強さと繊細さが変わり全体の印象が違ってくる。また、模様の彫り込んだ線が指にかかり滑り止めの効果にもなる。

これらの見極めは、私はまだまだ未熟だ。経験を重ねていくしかない。この積み重ねが、自分だけの曲線、バランス、装飾を作っていくことになっていくのだろう。