土曜日に京都への道中、車のラジオから瀬戸内寂聴さんのお話が流れてきたのを思い出す。

以前に買ってそのままになっていた『一個人 日本の仏教入門』を時間があったら読もうと思って持っていった。
なぜ、そのタイミングで読もうと思ったのかわからないけれど

そして、日曜日の朝に時間があったので、その本を夢中になって読んだ。
内容は親鸞、法然の生涯と思想、仏陀の生涯や教えなど、その一節に4月8日がお釈迦様の誕生日だと書かれていた。

まさに、その日に読んでいた。
しかも、親鸞や法然の総本山がある京都で

面白いこともあるもんだ。

話はかわるが、土曜日にバッジに
「福井の人にお願いするのは、心苦しいんですけど『原発反対』と彫ってください。」
言われました。

話は戻って、一番心に残った文章が、
無明(根本的な無知。ものごとの関係性がわかっていないこと)がわれわれの「執着」を生み、そのこだわりが「苦しみ」を生む。
これを逆からたどることで苦を乗り越える。
「なぜこの苦しみが起こったのか」「こうでなければならない、という執着が強かったからだ」「では、その執着はなぜ起こったのか」
「ものごとの本質をきちんと理解できず、どの方向へと進めばよいのかがわからなかったからだ」といった具合に点検を繰り返す。

先程の『原発反対』のことを考えてみる。
なぜ、原発が再可動しなければいけないのか。電気を得るため。それならば、電気の使用量を減らして原発が稼働しなくてもいいようにする。そのためには、生活を改める。毎日の選択基準を改める。生活が不便になる。不便とは執着か。なぜ執着するのか。本質を理解する‥…ぐるぐるまわる。

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