先日、大阪高島屋で展示会のために一週間大阪で生活していた。

その間はものを制作することが出来なかったので、本を読んでいた。
心の師匠の円空さんの本と棟方志功の本。

その別冊太陽『棟方志功』に興味深い内容があった。

本来イタコ(津軽の仏おろしの巫女)は、憑依状態に入って意識下の言葉を物語る者。志功の版刀を振るっている姿はまさにイタコをみているようだ。
「わたしもまた、自分は仏様のなすがままに板の上をころがっていればいい…」という意味のことを語る棟方の制作方法と本来のイタコの神おろしとのあいだに愛通ずるものを感じる。
津軽の神事は、イタコは男女二体のオシラサマを両手に持って舞わせながら祭文を語るのであるが、その行為は「オシラサマを遊ばせる」と言われている。この言葉も、「遊び」を至上の境地とし、「神様や仏様を遊ばせるような仕事」を目指している棟方の制作方法に通じているようではないか。
では、この「遊び」とは一体なんだろう。結論から先にいえば、それは無我夢中の境地であると思われる。子どものころに夢中になって遊んでいて、ふと我に返るとあたりは薄暗くなっている。それまで、無我の状態にあったことを意味している。
遊びのもっとも純粋な姿は、子供の中に認められる。子供は大人が縛られているような様々な規範から自分自身からも解き放たれているからである。なにものにも束縛されず、おもうがままに行動すること。それが遊びの本質であると思うのだが、本人には自意識という邪魔物があって、なかなか無我の境地に入ることはできない。そして、夢中の持続こそは天才の特質なのだ。我々も、物事に熱中し集中すれば、ときに日常にはあり得なかったほどの力を発揮することが出来る。

この文面を読んだ時に、電気が走った。

私の頭の中には、いつも「人はなぜこの世に存在しているのか。何のために生きているのか。」その疑問が禅問答のように繰り返されていた。

そして今、ある仮説が頭の中に積乱雲のように湧いてきた。

簡単に言えば、人は神様の欲求を満たす道具みたいなものではないかと思う。

人が我を忘れている時は、神が人の体に入り込んで遊んでいるのかもしれない。
スポーツが好きな神は、スポーツ選手に入り込んで遊ぶ。
絵を描くことが好きな神は、画家に入り込んで遊ぶ。
音楽が好きな神は、音楽家に入り込んで遊ぶ。
すべての職業は、神の遊び。

しかし、人が無我夢中の状態になっていないと神は入り込めないらしい。
ところが、現代ではその状態になって仕事をしている人の

割合が少なくなってきたので、どんどん人の数を増やして無我夢中の状態になって仕事をする人を増やそうとした。そのために人口が増えた。

私たちが無我夢中になればなるほど、神は遊びやすくなる。

お酒も神事で使われていた頃は、我を忘れて神に近づくための道具だったのかもしれない。

今回はここまでということで・・・

今は、古代人や先住民の暮らしや道具、模様に興味が湧いてきた。
その神と近かった頃の人の生活が気になってきた。

ということで、図書館で北の先住民アイヌの人々の本と土偶の本を大量に借りてきてしまった。
アイヌ

高島屋での展示風景

高島屋

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