私はいつも、出張する時には、図書館で本を借りて宿泊先で読んでいる。出張中が仕事から強制的に引き離される唯一の時間かもしれない。

いつものように本を探していた時に、先日、実家の法事で、器の絵付けをしている親戚のおじさんが「器はカタチが全てだ。」と熱弁していたのが記憶の片隅に残っていたらしく、器の本に手が伸びていた。

「原色日本の美術 陶芸」と「原色日本の美術 請来美術(陶芸)」という大型本の図鑑は何度となく見てカタチの勉強はしてきたし参考にしてきた。なぜ、それらの器がなぜ国宝と呼ばれるのか高さ・高台の大きさ・直径などの比率も実際に参考にして器を制作もしたことがあった。しかし、それらはカタチをなぞっただけに過ぎず、本質に至ってはいなかったことをこの「名碗を観る」を読んで痛感した。

名碗がなぜ名碗たるのかを器の背景やカタチ、バランス、景色などを解説したとてもわかりやすい本だった。

しかし、この本で紹介されていた名碗は、茶道のお茶を飲むための器として紹介されていたので、私が制作するお椀とは異なることは理解しておかなくてはいけない。

だが、お茶を飲む器であろうが汁椀であろうが飯碗であろうが、器のバランスには普遍的なものもあると思われる。その要因として手にした時の重さや手の収まり、口縁の厚みや反り、見込みの深さ、高台の形やバランスなどそれらがうまく調和し、普遍的なバランスに収まった時に人の心を揺さぶる名器になるのかもしれない。

これらを満たす器を作り上げるには、実際に出来上がったものを使ってみて、手の感触、重さ、口当たりなどを吟味し、自分の思い描く理想の感覚に少しずつ擦り合わせていく作業になるのだろう。木工よりも焼き物でのこの作業は、はるかに難しいことなのかもしれない。

私も、これから長い年月をかけて理想とする器を追い求めていくことを楽しんでいきたいと思うようになった。

見て美しく、持って心地よく、口をつけて感動する名椀を求めて


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