前回のブログを書いてみて、改めて美しいカタチとはどんなものかを考えてみた。

個人的には、作品を制作する時にいつも参考にする曲線は、アール・ヌーボーの時代のガラス作品である。ガレやドームもいるが、個人的にはルネ・ラリックが一番好きである。

木材の曲線は、自分で削り出して探し出す曲線だが、ガラスの曲線は重力が作り出す曲線だと思っている。ガラス作家はそれすらも自分の曲線だと言い張るかもしれないが、私はガラス作家ではないのでそこのところはわからない。

あの淀みのない曲線は、人間の手では到底作り出すことはできない。その想いが強いからこそ、円空の鉈で割ったそのままの造形に憧れているのは間違いない。

自然が作り出す曲線に人間が作り出す曲線が敵うはずがないのだ。

しかし、そこを突き詰めていくことこそ、美しいカタチを作り出す道かもしれない。

それでは、美しいカタチのものとは、どんなものがあるのか想像してみよう。

ここからは、個人的な意見を述べるので、それは違うと思う人も出てくるだろうが、もしかすると皆が同意するような普遍的な美しさをさしているかもしれない。ここでいう美しさとは、日本人ならではの感覚かもしれない。もしくは、世代別で美しさの基準が違うかもしれない。そんなことを考えていては、自分自身の求めるものがわからなくなってしまうので私なりの美しいと思うものを述べていくことにする。

あらためて美しいカタチとはどんなものなのかを考えてみる。

頭の中に浮かんきたものを自分のふるいにかけて、見事にそのふるいに残ったのは

鳥と書。(その他にももっとゆっくり考えればあるかもしれないけれど…)

まず、鳥。

特にツルとニワトリ。

でも、これは日本人にしか当てはまらないかもしれないが、嘴の流線型から二本足で立つ不安定さ、その不安体さを保つためのバランスを尾でとっている。もちろん、鳥の飛んでいる姿も格別に美しい。ニワトリは飛ばないが…

次に、思い浮かんだのが、まさかの人間が作り出した文字「書」だった。

これこそ、日本人にしか理解し得ないことだと思うが、あらためて考えてみると、「書」は人が全てを思い通りにすることはできないものなのかもしれない。鉛筆とは違い、人がコントロールできない部分は必ずあると思う。

それこそが、美しさの大きな要因なのかもしれない。書家の方には、大変無礼なことを書いているかもしれないが、あくまで個人的な見解なので…

ふと、気づくことがある。

木彫りも、人の手で彫るが、その彫り跡は、必ずしも作者の思い通りではないということである。木目の流れに作用されたり、彫刻刀の切れ味によって違ったり、厳密に合えば、彫刻刀の侵入角度や、その時の筋肉疲労によって変わってくる。集中している時、考え事をしていて気が入っていない時、あらゆる条件によって刃物がえぐる曲線は、人間の意図しないものになってしまう。それは、作者自身が気がつかないくらいの違いかもしれないが、人智が及ばない世界の微妙な違いかもしない。しかし、それこそが明暗を分ける大きな違いになってくるのかもしれない。

むしろ、その微妙な違いを繊細に感じ取れる段階にまでいかなければ、求める美しい曲線は作り出せないのかもしれない。

こんなことは作り手として、絶対に書くべきではないことだが、自分の作品の全てを美しいかどうかということだけを基準に見て見た時に、どれ一つとして、自信を持って美しいと言える作品は見当たらなかった。惜しい作品はいくつかあったがそれもほんのわずかでしかない。

この自分のの中の基準はどこからくるのだろうか。おそらく、これまで自分自身が感動してきたものの普遍的な美しさだと思う。

それは、遺伝子レベルなのか。個人的な好き嫌いによるものかはわからないが、自分自身の中に美しいと思える曲線があることは確かである。

そして、その曲線を作り出せていないのも確かである。

もちろん、これまでも意識はしてきたが、まだまだ、甘い部分もあったのは間違いない。しかし、それは、価格との兼ね合いもあり妥協してきたと言い訳したい。

しかし、これからさらに上を目指すのであれば、そこを妥協せずに追求していかなければいけないだろう。

自分が美しいと思える曲線がどこまで通用するのかを

そう考えるとワクワクしてきて眠れない。


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