私が彫刻を彫るうえで、大きな影響を与えている人物は何人かいる。
その代表格が、円空、藤戸竹喜とジャコメッティ、そして本郷新。その他にも多々いるがすぐに浮かんでくるのがこの4人である。
数年前に北海道へ行った際に、デンマークの建築家および家具デザイナーのフィン・ユール展が本郷新記念札幌彫刻美術館で開催していたので見に行った。
そこで初めて出会ったのが、本郷新という彫刻家だった。本来の目的で出会ったフィン・ユールもさることながら、本郷新に衝撃を受けたのを覚えている。
帰宅後に、本郷新がどんな思想を持って彫刻と向き合っているのか知りたくなり、彼が書いた「彫刻の美」を読んだ。その本の感想文も以前に、このブログで書き記している。まさに彫刻の教科書といえるであろう。
最近、私の作品に彫刻が増えつつある。おそらく、周期的に訪れる彫刻彫りたい症候群が発症しているからだろう。そんな節に、ふと本郷新の言葉に触れたくなり、彼の言葉が収めれている書籍を探したところ。
題名の「芸のこと技のこと 江口隆哉対談集」に辿りついた。
この本は、舞踊家 江口隆哉が様々な各界の芸術家との対談が収められている。棟方志功・林家正蔵・伊藤深水・淡谷のり子・坂東三津五郎など、そのなかのひとりに本郷新がいた。
対談については、12ページほどの内容だったが、今の私にとって彼の語る言葉の一言一句が突き刺さってきた。
その一部を抜粋して紹介したい。
本郷 ・・・抽象ちゅうものがなければ、写実も具象も成り立たないんですね。それなら、はじめっから馬は石膏で型をとればいいし。人間は人間で型をとりゃあいんですから、やることないですよ。
本郷 じゃあ、何をやるかというと、馬の姿をかりて何かやるでしょ。鳥の姿をかりて何か表す。人間の姿を借かりて何かを表す。その何かというところに抽象的なものが働くわけです。・・・
江口 ピカソがね、原始人が彫ったり、描いたりしたものを見て、大いに刺激されたっていうでしょう。
そこ本郷 啓示を受けた。黒人の彫刻から啓示を受けたんです。つまり、ピカソの時代まで近代が歩いてきた道は、科学的な透視画法によって、遠くのものは小さくなっていた。それから人間の描き方でも、手が長すぎたり、首が長すぎたりすることがいけないというアカデミックな一つの方法というものが、ずっと続いていたんです。ところが、そういうもので表せない、そういう規範を破らなければ出てこないような強烈な生命感というものを、黒人の彫刻から発見したわけだ。首がどうしてこんなに太いのか、どうしてこんなに手がでかいのか、どうしてこんなに胸が出ててお尻が小さくて、脚がでかいのかというような、そんなような格好をしていながら、どうしてこんなに生命があるんだろうかということを発見した。そこでね、表現の強烈さ、もっと心の方を大事にしないと。一般的な眼というより、心の方を大事にしなければ。つまり主観といったらいいか、わが心に感じたものを何とかして出すためには、今までの方法を破らなけりゃならん。というところから出てきたのが立体派ですわね。立体派の理論なんてものを、ここで今、お話しすると長くなっちまうけれど、つまり、対象を眼で見たとおりに描くちゅうことでなくて、しってる通りに描くちゅうことです、認識した通りに。自分で自分の心が認識したように描くちゅうことです。たとえば、眼で見ているうちは、わたしはコップの裏はね、模様があるかどうかはね、わかんないわけだ、テーブルの上にくっついてるから。ところが、あることを知っている。コップの裏が引っ込んでいることも知っている。しかし描けない。いや、描いたらいいじゃないかと、コップの底まで描き出した。コップの底はこうですよと、模様の向こう側は目に見えないけれども、向こう側はこう続いてるんですよと、それ全部描くんです。対象をバラバラにして、そしてもう一度組み立てるわけです。二次元の画面の中に。人間には理性があるから、理性によって認識したものを一度分析してしまう。そうすると、眼で見た通りのでない、しかし、ウソではない。自分にとってより真実である。・・・
この言葉と出会ったことで、私がこれまで不完全でありながら、均整も整っていない作品に魅了されていた理由が理屈でなく、言葉として理解することができた。
写実的であることを否定しているわけではない。その時に自分の手が作り出した作品が結果的に写実になることもあれば、抽象になることもある。
人と繋がる手段・コミュニケーションのツールとして、芸術家は作品を通して対話をするのだろう。




