ふと目に入った背表紙には、真っ黒のブックカバーに、消え入るようなスミレ色の字で『お咒い日和(おまじないびより)』
この本からは、明らかにオカルト系の雰囲気が漂っていた。しかし、気がつくと、まるで誰かに操られているように、本を手にしていた。その表紙には、真っ黒の背景に一際目立つように、金色の藁人形がワンポイントのように描かれていて、ご丁寧に五寸釘までその藁人形に打ち付けられていた。

恐る恐る、興味本位で目次を開いて内容を確認してみると、第一章 お咒い日和… 第二章 古来のお咒い/大工・大麻・マタギ… 酒造り … んっ!?想像していた内容と違う!?私の好奇心センサーがサイレンを鳴らして反応していた。「興味あり!!」と
迷信や占いに深い信頼を寄せている方ではないが、しきたりや風習には興味はある。とりあえす、持ち帰って読んでみることにした。
結論からいうと、読み終えたあとには、表紙からは想像できないほど、清々しい気持ちになっていた。でも、これは「私(宮保克行)が読んだから」という条件が満たされて初めて成立する「清々しさ」だと思う。
その「清々しさ」の理由は、過去に私が体験してきた事柄を、手取り足取り分かりやすく、そして理論的に科学的に解説してくれていたからだ。その過去に体験してきた事柄については、後で詳しく説明することにして、その体験と、照らし合わせてながら本を読み進めていくと、表面的にしか理解していた事象が、本質をとらえ記憶の解像度がぐっと上がったのが分かった。その結果、過去の記憶がどんどんアップデートされていくのを実感できた。それこそが、読み終えた後の「清々しさ」に繋がったのだ。
それでは、「過去の体験」について触れていくことにしよう。その体験とは、私が生まれ育った石川県美川町の天下の奇祭「おかえり祭り」のことである。「オギャー!」と生まれてから美川町を離れるまで約30年近く。このお祭りにどっぷりと浸ってきた。そのため、私は普通の人よりは祭事や神事に触れる機会が多かった。
美川校下青年団に入団し、春季祭礼を取り仕切っていたこともあり、神社関係の神事も深い部分まで見て体験してきた。しかし、その当時は、神社の祭器やお供物、宮司さんの振る舞いや仕草・言動のひとつひとつに理由があることを知らなかったし考えもしなかった。
この本には、それらの理由や意味が納得のできるように説明されていた。まさにタイトルに書かれていた「お咒い日和 その解説と実際」だった。
私のお祭りに対する知識を、血液で例えるなら、今までの知識は、太い血管だけを流れていた状態だったが、この本を読むことで、その知識の血液が、毛細血管で隅々まで流れ始めたような感覚になった。だからこその「清々しさ」だったのだ。
このお祭りの記憶のアップデートとは別に、記憶に残っている興味深い内容があったので紹介したい。
第一章のお咒日和 に「言」という章節があった。その中に、日本では古くから言葉が霊力を持つという考えがあり、「言霊」という。その言霊を用いたマジナイを私たちは日常的に使っていると書かれていた。
その典型のひとつが「いってらっしゃい」だという。
つまり「行って・いらっしゃい。」目的地に行ったのち、無事に帰ってこいという、半ば命令的な意味を含んだ引き戻しの呪言なのだそうだ。
ゆえに、娘が嫁に出るとき、家人は「いってらっしゃい」とは言わない。「いきなさい」と送り出す。宴席の終わりに「おしまい」とは言わず「お開き」と言う。日本人は悪しき言霊を悉く排除しようとしてきた。さらに、言霊の力によって負を正に変えようしてきた。
こういう部分は私は大好物である。
私が多大な影響を受けた中村天風氏も「言霊」のチカラを非常に熱心に説いていたひとりである。むしろ、言葉にしなくとも思っただけでも、それが現実に姿を表すとさえ言われていた。
本書では、「言霊」ということにクローズアップしていたが、私の場合、木工の仕事に置き換えるなら、木を彫る・削る・刻む行為も「呪言」ならぬ、想いを作品に込める「呪刻」といえるのかもしれない。
鑿の一打一打、彫刻刀の一彫一彫に思いを込めて作られる作品には、やはり大量生産で作られた工業製品にはないなにかがあると思う。
それこそが、作品から滲み出る個性で魅力であり命なのかもしれない。



