先月、愛車のデリボーイを廃車にしてしまった。
商談先へ向かう途中だった。

大型トラックとの正面衝突。
奇跡的にほぼ無傷だった。

お医者さんにも「トラックと喧嘩して無傷は奇跡としか言えん。」と言われた。

これはデリボーイが助けてくれたに違いない。
よく、ペットが飼い主の身代わりになって助けてくれるそんな話を耳にするがまさにそれだと思う。

自分で言うのもおかしいが、愛情は注いできたつもりだった。どんな大掛かりな修理をしてでも、いつまでも乗っていたいと思っていた。廃車にする1週間前にマフラーが落ちて修理してもらった矢先の出来事だった。クラクションも鳴らなくなっていた。帰って来たら直すつもりだった。

その頃から、もうすでに限界がきていたのかもしれない。

いつも、デリボーイの老体にムチ打って全国各地のイベントに参加していた。
帰ってきた時にはいつも「お疲れ様。よく頑張ったな。ありがとう。」と声を掛けていた。

どんな修理をしてでも直して乗りたいと思っていたけれど、そうはさせてくれないほどの重体だった。
少しの怪我だったら直して乗り続けるだろうと思って、廃車になるくらいの一世一代の大きな芝居を彼は打ったのだろう。

愛情を注ぐと必ず答えてくれる。それは、人や動物だけではなく、物や道具にも言えるということを身を持って実感した。

私が作っている木の道具にもその可能性があると、そう思いたい。
誰かが大切に愛用してくれていれば、その道具が必ず応えてくれる。

大げさかもしれないが、私は今ここに生きている。死んでいたかもしれないが生きている。
この世に、まだやり残したことがあるのか。神様が生かしてくれた。

野弧禅というミュージシャンの『拝啓、絶望殿』という曲の中に、こんなフレーズがあった。「何かに命をかけてみようと思います 今はまだ何に命をかけるべきか分らない僕ですが それでも堂々と胸を張って 何に命をかけるべきかを 命をかけて探してゆこうと思います」

それぞれ、みんな使命を持って生まれてきている。
人を愛するため。助けるため。世界を変えるため。人を導くため。
自分のため。人のため…本能ではそれが分かっているけれど、ほとんどの人がそれにフィルターをかけてしまっているのではないだろうか。

一度きりの人生、そろそろ自分に正直に生きてみてもいいんじゃないだろうか。

あんまり、堅くなってしまうと重くなるので

自分がやりたいことをやるだけでいい。そこさえ外していなければ必ず大丈夫。
うん、この方がいいね。

今回のブログは愛車デリボーイに捧げるとしよう。
今まで本当にお疲れさまでした。
ありがとう。

追伸 いつまでも。少年のデリボーイ様へ

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