今朝、庭の草むしりをしていた時に、ちょっとだけアイヌの世界にタイムスリップしたような思考になった。

土から生えている草には命がある。抜いてしまうと枯れてしまう。
私が、表現する材料として選んだのが「木」である。
アイヌの人々も主に木を加工して生活道具を作っていた。

それならば「木」どうだろう。生きてる「樹木」の時は、果物や木の実をもたらしたり、二酸化炭素を吸ったり、木陰を作ったり、雨をしのいだりできる。それを切り倒して、人間が道具として使おうと思った時に、果たして、その樹木の生命力やエネルギー、見えない力の効力がなくなってしまわないだろうか。
そう思ったに違いない。
おそらく、あの時代は神や仏よりも、自然の恵みや災いを精霊の仕業として捉えていたのだろう。

「ならば、木材にエネルギーそのものを彫り込めば、その力にあやかることができるのではないか。樹木のエネルギーを止めることができるのではないか。」

そして、エネルギーを可視化した渦巻き模様、生き物も生命力を彫った鱗文様、あらゆる自然を可視化しデザインとしてそのエネルギーを道具に込めたのかもしれない。

だとすると、今現代の私が何らかの模様を彫ることも、そこに想いやエネルギーを込めることになるのではないか。
おそらく、アイヌの人々はその道具にどんな力を与えたいのか、使う人にどんなエネルギー届けたいのか、その想いがあの模様に現れていると思う。

そうすると、使った人によりエネルギーを届けられる模様やその道具の力を増幅させるような模様がおのずと見えてくるのかもしれない。

西洋の歴史はあまり詳しくないのだが絵画でキャンバスや壁に絵を描くことと、古代日本人の道具に模様を彫ることや体にペイントすることは根本的に違うのかもしれない。

西洋の花を描くことは、この花の魅力を伝えたい、この花をどう思う、などのコミュニケーションの手段であるならば、古代日本が描く花はその花の美しさをまといたい、花の力を道具に込めたいという、その対象のエネルギーを享受する手段と言えるだろう。

これは、西洋の古代ギリシャ神話の神と古代日本人の精霊の関係の違いからくるものかもしれない。

草むしりから、広がる思考のタイムスリップ。

すべては、私の想像と仮定の妄想です。

さあ、次はどんな作品が生まれてくるのか楽しみだ。
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