先日もブログに書いたように、今自分の内側を覗き見て、答えを導き出すことはまだまだできないのだが、客観的に認識したいと思っている。
箸づくりの方は、想いや目指すところははっきりしている。宮保克行として木工デザイナーとしてはこれも、おおよそ把握はできているつもりである。しかし。木工作家としての宮保克行としては何をしたいのか。何を表現したいのか。なんのためにものを作るのか。それを確認して見たくなった。

その呼び水として、芸術家の考え方や信念、目指しているものなどを知りたくなった。
そこに、ヒントがあるような気がして

図書館でたまたま手に取った「美術家たちの証言」とても興味深く読ませていただいた。
故人のことを評論家や誰かが研究や憶測で述べているものではなく、本人の口から、または手で書かれた生きた言葉を読みたかった。

この本の中で今の自分に引っかかった芸術家の言葉を紹介する。

高村光太郎
芸術作品には何か真面目な要求ー私はこれを詩というーが必要だ。

安井曽太郎 
自然をよく見て学び、形、色、線の組み立て等を取り入れることをやっている。

篠田桃紅
「よめないけれども美しい」読めればその文字なり、文字の内容が折角の純粋な視覚の感動に立ち代わって来るでしょう。
主体は文字ではなく、書く人の精神なのですから、文字は表現の造型状上の材料に過ぎなくなります。

棟方志功
目をつぶっても三角刀ひとりでに動き出すようにならなければ駄目です。
「よさばかりでなく、自分の臭味や欠点もさらけ出しながらそれが逆に魅力とならなきゃいけないと思うのです。」

浜田知明
あまりに抽象化することは見る人に描かれたモチーフへの手がかりを失わせ、作家の意図を曖昧にしてしまう恐れがある。
ひたすらに自分に誠実であろうとすることだけが私の支えであった。

志村ふくみ
全く自由に見える一本の糸もその元をたどれば、宇宙の根元にしっかりと結ばれていなければ、みるものに確固とした実在感を与えることはあり得ない筈である。優れた作家の仕事は、鋼鉄のようなロープの起伏やうねりの中に制作者の哲学がひそむのを感じ、無数に立林する直線や斜線の糸の交錯の中に繊細な室内楽を聞く思いがする。
仮に伝統の城に安住し、人工の粋をきわめ技巧に身を固めた仕事を前者とすれば、人間の心理や情緒をさかなぜするような特異な衝撃のみをあたえる仕事を後者といえるだろうか。

川俣正
現代美術に多くの観客はいらないというのではなく、もともと分かち合えないものとしてあるということを前提として、そこからどのくらい現代ということのシンパシーを感じ得る人達が現れてくるのかということ。
この暴力的な消費社会の中において美術のフィールドに限らず表現の場そのものを自分の中で一つの表現ファクターとして考えることから始めない限り、この大きな消費のサイクルの中で個人の表現というものが上滑りしていかざるを得ないのではないかという危機感をどこかで感じているからである。

野見山暁治
人間ですから、自分の目で見たことのないものを描くわけがない。私がどんなに世の中にないものを描こうとしても、どこかで見たものの寄せ集めでしかないんです。見たものを描きながら、実は、神様がいろんな世の中をつくったり、動物や人間を作ったりしたように、人間だって画面の上に、自分の好きな風景や自分の好きな動物をつくってもよろしかろうと。

では、私は何がしたいのか。自問自答してみる。
私の興味の変遷を思い出してみた。
仏教 → 禅 → アイヌ → 縄文 
どんどん原始的なものに惹かれるようになってきたのだろうか。自然や宇宙の真理の探究なのか。
人で興味を持ったのは、ゴッホ・棟方志功・円空・鈴木大拙・ジャコメッティ・宮本武蔵・片岡球子・岡本太郎・スティーブ・ジョブズ・パッチ・アダムス。そして、クラッシックのboleroも好きだ。
これらから見えてくるのは、間違いなくエネルギーだ。私はエネルギー溢れる強烈な個性に惹かれるのだ。

強烈なエネルギーの作品を作りたいと思う反面、静寂で無感情な作品を追求する自分もいる。
作品のテーマとしてよく用いるものは、月と太陽、裏と表、ぐるぐる文様、無意識、偶然

今は、その瞬間に作りたいと思うものを自分に正直につくっていきたい。
その先に集約されるなにかを楽しみにしていきたい。

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