ここ最近は、身に起こる全てが「今、このタイミングで出会っているように感じる。」それは、人であれ、出来事であれ、本であれ、景色であれ、モノであれ、そう思えてくる。

それは、今朝、読み終わった本。 本郷新が書いた「彫刻の美」を読みながら強く実感された。

この本に辿り着いた経緯は、今年の夏に遡る。

私が製作している手が不自由な人のための箸「愛bow」が福祉機器コンテストで最終選考に残り北海道でプレゼンすることになった。結果は残念ながら落選だったが、空いた時間を利用して美術館を訪れようと調べていたところ。

本郷新記念札幌彫刻美術館で「フィン・ユール展」が開催されていた。この時まで、本郷新の名前は、恥ずかしながら知らなかった。大学時代に家具を勉強していた時に、フィン・ユールの名前は知っていたので、その名前におびき寄せられるように美術館を訪れたのだった。その時の目的は本館であり、あくまで記念館は、共通券があったから入ったにすぎなかった。

本郷新の彫刻は、その力強い彫刻の外側とは裏腹に、内面にはち切れんばかりのエネルギーが詰まっているように感じた。

今、思い返してみれば北海道へは本郷新に会いに行ったような気さえしている。

北海道から帰ってきた私に、阿弥陀如来の仏像を彫って欲しいという依頼が舞い込んできた。これまでに、小さなものではあるが仏像は彫ったことがあったので、引き受けることにした。

阿弥陀如来について、図書館で資料を借りてきて勉強し、私が師のように仰いでいる「円空」の写真集も読み返して、私なりの阿弥陀如来を彫り上げた。

しかし、依頼主から、「私はこれから毎日、ご本尊に向かってお経を唱え、私が亡くなってからも、このご本尊に守ってもらう気にはなれない。」ともう一体、作ってほしいと言われてしまった。

そして、この「彫刻の美」を読むに至ったのである。

仏像に関する本を読んでも、依頼主の求めているものを作ることはできないと分かっていた。綺麗な仏像を望んでいるのでは決してない。求めらているのは内面からくるエネルギーに手を合わせたくなるようなご本尊である。

この本は、仏像を彫りあげるための勉強のために読んだものだったが、私に教えてくれたことは仏像彫刻だけではなかった。形が生まれる造形の根本をわかりやすく教えてくれる教科書のような本だった。

今、お茶の世界に興味あり、名品と言われる茶碗を勉強して写しを作ったり、参考にしたりして器を作ってきた。その理由として、名品と言われる茶碗を真似ることで、その名品たる所以を掴み取ろうと思ったからだ。

それら形状は、バランスや比率、間など感覚的なもの頼ることが多く、言葉で表現することが難しいと思っていた。

以前にルーシー・リーの本を読んだ時に書いたブログでも造形について書いていたが、その時は、非常にわかりづらい言葉で書いていたと反省したくなるほど、本郷新は、この「彫刻の美」の中で、私がこれまで感覚的に捉えていた基準を明確に言葉で記してあった。

ここからは、分かる人にしか伝わらないかもしれないが、私が造形で美しいと思える基準を本郷新の言葉で表すなら、

「量感」

ものが本来持っている物理的な肉付きと目に見えない実態を表現するために必要な肉付けといえるだろうか。

「比例」

比率のことである。頭と胴体比率、それは、子供、大人、人種、男女によっても違ってくる。

「釣合」

バランスのことである。目で見えるバランスももちろんだが、感情のバランスも表現しなくてはならない。

「動勢」

動きのバランス。上に動こうとする動きなら、それと対応するように下に抵抗する力が起こる。

「音律」

リズムを持たせる。彫り方や模様、間などで飽きさせない。音楽を奏でるように

「調和」

部分部分の調和。周りの空間との調和。

「空間」

周囲の景色との調和を考える。置かれる場所。目線。光の当たり方。

以上の言葉は、私がこれからの造形物を作り出す時の大きなヒントになることは間違いない。

この本で、私の心に響いた文章をいくつか紹介したい。

「肖像彫刻」

見た目だけ似ているといううわべだけの似かたをした彫刻は、彫刻としていつまでもねうちがあるとはいえない。肖像彫刻も幾百年かたつと、似ている似ていないはたいした問題ではなくなって、その人のほんとうのねうちや、その彫刻にあらわれているもののねうちがだいじになってくるから、いわゆるそっくりだというような似かたをしているだけでは、十分ではない。その奥にひそむ永遠の姿、表情の源に深くくいこんだものが、すぐれた肖像彫刻である。

「建築と彫刻」

どこからどこまで実用一点ばりで、装飾などまったく不要だとした近代建築の立場からいえば、外側に彫刻のたくさん取りつけてある、はなばなしい装飾のある中世紀の寺院や、パリの凱旋門などは建築ではなく、彫刻といった方が正しいかもしれない

この文章を読んで、私がつくり出したい作品も、単なる機能的な道具ではなく、彫刻のような日用品を製作したいと思っているのだと頭で理解することができた。

話はどんどん広がるが、この「彫刻の美」と一緒に見つけたもう一つの本がある。

「現れよ。森羅の生命 木彫家 藤戸竹喜の世界」

この本は、国立民族博物館開館40周年記念企画 アイヌの工芸品展の図録である。本郷新の言葉を借りるなら、この藤戸竹喜は、ものすごい量感の彫刻を彫る人である。そして、偶然にも、二人とも北海道の人だった。

本郷新の本が心の教科書ならば、藤戸竹喜の図録は私の実技の教科書と言える。

そろそろ、話を収束させようと思うが、この半年の間に起こった全ての事柄が、今思い返してみるときれいにつながっていたのだ。もちろん、その当時は、こんなふうにつながるなんて思ってもみなかった。

今、自分に起こるすべてのことがらは、今、起こるべくして起こっている。

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