「神木探偵 神宿る木の秘密」本田 不二雄 (著) という本と出会った。

実は松の樹皮の模様を器や皿に彫ってみたいという想いから、樹木の写真集を探していたのだ。偶然手にした本には、次のような文が冒頭に書いてあった。

「できれば本書を手にした方も、これらの「すごい」木と出逢い、しばし呆然とし、魂が抜けるような感覚を味わっていただきたい。」

内容を読まずしても、この文章が全てを物語っていることがすぐに分かった。

本文を読み進めていくうちに、「ご神木」には、一本一本にそれぞれ背景や歴史・伝説があり、信仰の対象であり、地域住民のよりどころとなっていることを知った。

本を読み終わった次の日。私もさっそくご神木巡礼に出掛けることになる。

最初に向かったのは、横根の大杉。二本の杉が鳥居のようになっている。

最初にこの場所に呼ばれたのは、鳥居をくぐることで、ご神木巡礼の始まりを意味していたのかもしれない。ここから私の巡礼が始まった。

そして次に向かったのが、岩屋の大杉。

見る角度によって様々な表情をみせる。巨木ならではの樹皮の割れ、蒸した苔、風雪でささくれた皮。それはまるで、歳を重ね悟りを得た仙人のようだった。

思わず、手を合わせてしまった。

3番目に向かったのは、西光寺の大杉。

数え切れないほどの枝に圧倒される。見上げると空一面の枝。首が疲れるほど時を忘れて見上げていた。それほどまでに美しかった。恐ろしさや崇高さよりも美しさや温かさを感じる巨木だった。

4番目に向かったのは、薬師の大いちょう。

これまで、杉ばかりだったので、いちょうの鮮やかな緑がひときわ目を引いた。そして、根元から生えている無数の蘖。樹齢を重ねているからこその、老若が一体の様相が印象的だった。

5番目に訪れたのは、若宮神社の大杉。

縦横無尽に広がる枝は、まるで千手観音のようだった。天だけでは飽き足らず、地面からもそこかしこと根が地表にむき出しになり、この空間を支配しているようだった。

6番目に出迎えてくれたのは、菖蒲池白山神社の大ケヤキ。

このケヤキは、正面と反対側で全く相反する表情を見せた。神社に向かっている正面は何事もなかったかのように平然とみえるが、実は裏側は、本当に枯れていなのかと思ってしまうほど大きくえぐれているのだった。

本当は苦労や大きな挫折を繰り返しているが、それでも顔色を変えずに前向いて生きていくそんな勇気をもらえるご神木だった。

7箇所目は、専福寺の大欅。

これまで見た中で最も太い根回りだった。あまり太さに空いた口がふさがらない。マンモスどころではない、恐竜それもブラキオサウルスの足はこんな感じなのだろうかと想像してしまった。その太い幹ににあわない小さな葉っぱがなんともミスマッチに可愛らしかった。

そして、最後をしめくくったのが、白山神社のカツラ。

これまでのご神木とは一線を画すほどの異様さが漂っていた。うかつに近づけば、幹の周りの細かい枝が巻きついてくるのではないかと思えるほどの強烈な威圧感があった。私の脳内にある木の幹のイメージではない。もはや木ではない他の生命体のようだった。

街中のご神木と違い、山奥にあるご神木だったこともあり、周りの雰囲気や空気感、匂いがそう思わせたのかもしれない。手を合わすというよりも、「失礼します。」という感じである。

根元に空いた穴が異世界に通じているのでないかと思ってしまった。

8本のご神木と対面し、なんとかこのエネルギーを作品として表現したい。

そんなとき脳裏に浮かんできたのが、画家の千住博氏の言葉だった。

有名な滝の画は、ボス鹿を描こうと思っていんだけれども、ボス鹿の奥に見えた滝を描くことでボス鹿の強さを表現できると思った。そんなようなことを言っていた。

私もこのまま樹を彫って作ってもなにか違うと思っていた。そんな時に、思い浮かんできたのが狼だった。神格化された狼の霊的な存在感、味方でもあり脅威でもある崇高な恐ろしさ、私のご神木巡礼で感じたイメージのそれとぴったり重なる。

狼について調べていると日本人と狼の関係がとても興味深い。この話をすると長くなるのでまた次回にしよう。そうして、狛犬ならぬ「狼像」があることも知った。その瞬間、私は「狼像」を彫って巨木で感じたエネルギーを表現しようと思ったのだった。

どんな「狼像」が生まれてくるのか楽しみである。まさか、一冊の本からここまで飛躍するとは思ってもみなかった。

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