初めての講演会が終わった。

石川県PTA連合会地区別研究指定発表会で記念講演をすることになっていた。来場者は、石川県の小学校の校長先生や教頭先生をはじめ、PTA役員だった。人数は約200名。そこで1時間の時間を与えられた。

今回の講演会の依頼は、小学校の校長先生になった中学校の担任からの話だった。私が取材されていたテレビ番組をたまたま見ていたらしい。そんな縁で、私に白羽の矢が立ったのだ。

正式に依頼されたのは、6月頃だったように記憶している。講演会は10月27日。約4ヶ月の執行猶予期間が与えられた。

とにかく、スピーチの本、プレゼンの本、話し方の本を何十冊と読んだ。そして、プレゼンや講演会の動画を何回も見た。

ある程度、プレゼンや講演会のことを理解した上で、台本を書いてみたら、これがすらすらと伝えたいことがどんどん文字として溢れてきた。ただ次々に浮かんでくる文字を記録しているのだ。この時の不思議な感覚は、よく小説家が「自分で考えているのではなく、誰かに書かされているようだった。」と言っているが、まさに、そんな感覚だった。文章の構成や、時系列、最後のメッセージまで自分で言うのもなんだが、意識して書いたわけではなかったが、よく書けていたと思う。

実際には、この後に、講演内容を何十回も推敲した。より伝わりやすい言い回しがないか。この部分を削った方がいいのか。この話題を入れた方がいいのか。それは、講演会の直前まで続いた。

講演自体はというと、最初は緊張のあまり使用するスライドを、最初の2、3枚動かすのを忘れていたが、その後は、落ち着きを取り戻し、自分でも不思議なくらい想いを乗せて話をすることができたと思う。

初めてにしては、うまくいったと自分自身を褒めてあげたい。

講演会は、初めての経験だったが、実は引き受けたあとは、ずっと後悔していた。当日、台風が来て中止になればいいのにと思っていた。うまくできるだろうか。内容はこんなので本当にいいのか。この4ヶ月間は、夜はずっと講演内容とにらめっこしていた。睡眠時間もあきらかに少なくなっていた。

しかし、今回、講演会を経験させてもらったことで、今まで踏み込んでいなかったジャンルの本も沢山読めたし、様々な動画をみたことで、いろんな人の考えを知ることができたことは本当に良かったと思う。

もし、次回があるなら、次は大人だけでななく、子供たちに夢のある話を届けてみたい。

そして、子供たちの何か行動をきっかけになれば最高に嬉しく思う。

                                                                                         

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

ルゥーシー・リィーといえば、高台が小さくラッパのように広がった形状の器を思い出す。これまで彼女の作品を見てもそこまで惹かれたことがなかったし、数ある作品の一つに過ぎなかった。だが、あの形状は不思議と記憶に強く刻み込まれているのだ。

今、私は自分が美しいと思えるフォルムの作品を生み出そうともがいている。そんな中、美しいフォルムを追求していくと、彼女の作品のような高台が小さい器になることが何度かあった。もしかしたら、記憶の奥底に強く刻み込まれたあの形状が無意識のうちに顔を出したのかもしれない。

不思議と美しい造形を追求していくとその線上に彼女がいるのである。

その理由は、この本を読んで納得した。

「… 釉も文様も、それぞれの特質を最高度に発現しながら、このフォルムの磨き抜かれた美しさを引き立てる__というよりもむしろ、フォルムと釉と文様とが渾然と一体になって、まさに陶磁器以外の何ものでもない一つの世界がここに作り出されているのである。」

「彼女は極めて多様で豊かな装飾文様を生み出すことができた。しかもその文様は、あくまで作品のフォルムに即しつつ、その表面を生気づけるためにほどこされていて、決して過剰に陥っていない。このフォルムが装飾を引き立て、装飾がフォルムを活かすという関係は、ルゥーシー・リィーの作品においては絶妙と言っていいほど見事である。」

まさに、この二つの文書は、私が美を意識して作品を生み出すときに、細心の注意を払っていることに他ならない。

私は器を作る時に、全体のバランス、高台の大きさと高さ、口縁の反りと厚み、装飾をどこにどれだけ入れれば良いかを考えている。装飾はとても重要な役割を果たしている。線一本をどこに入れるかによって、間延びしていた胴の張りに緊張感が出てくる。何本入れるかによって、線の上部と下部のバランスが大きく変わる。線の太さによって力強さと繊細さが変わり全体の印象が違ってくる。また、模様の彫り込んだ線が指にかかり滑り止めの効果にもなる。

これらの見極めは、私はまだまだ未熟だ。経験を重ねていくしかない。この積み重ねが、自分だけの曲線、バランス、装飾を作っていくことになっていくのだろう。

前回のブログを書いてみて、改めて美しいカタチとはどんなものかを考えてみた。

個人的には、作品を制作する時にいつも参考にする曲線は、アール・ヌーボーの時代のガラス作品である。ガレやドームもいるが、個人的にはルネ・ラリックが一番好きである。

木材の曲線は、自分で削り出して探し出す曲線だが、ガラスの曲線は重力が作り出す曲線だと思っている。ガラス作家はそれすらも自分の曲線だと言い張るかもしれないが、私はガラス作家ではないのでそこのところはわからない。

あの淀みのない曲線は、人間の手では到底作り出すことはできない。その想いが強いからこそ、円空の鉈で割ったそのままの造形に憧れているのは間違いない。

自然が作り出す曲線に人間が作り出す曲線が敵うはずがないのだ。

しかし、そこを突き詰めていくことこそ、美しいカタチを作り出す道かもしれない。

それでは、美しいカタチのものとは、どんなものがあるのか想像してみよう。

ここからは、個人的な意見を述べるので、それは違うと思う人も出てくるだろうが、もしかすると皆が同意するような普遍的な美しさをさしているかもしれない。ここでいう美しさとは、日本人ならではの感覚かもしれない。もしくは、世代別で美しさの基準が違うかもしれない。そんなことを考えていては、自分自身の求めるものがわからなくなってしまうので私なりの美しいと思うものを述べていくことにする。

あらためて美しいカタチとはどんなものなのかを考えてみる。

頭の中に浮かんきたものを自分のふるいにかけて、見事にそのふるいに残ったのは

鳥と書。(その他にももっとゆっくり考えればあるかもしれないけれど…)

まず、鳥。

特にツルとニワトリ。

でも、これは日本人にしか当てはまらないかもしれないが、嘴の流線型から二本足で立つ不安定さ、その不安体さを保つためのバランスを尾でとっている。もちろん、鳥の飛んでいる姿も格別に美しい。ニワトリは飛ばないが…

次に、思い浮かんだのが、まさかの人間が作り出した文字「書」だった。

これこそ、日本人にしか理解し得ないことだと思うが、あらためて考えてみると、「書」は人が全てを思い通りにすることはできないものなのかもしれない。鉛筆とは違い、人がコントロールできない部分は必ずあると思う。

それこそが、美しさの大きな要因なのかもしれない。書家の方には、大変無礼なことを書いているかもしれないが、あくまで個人的な見解なので…

ふと、気づくことがある。

木彫りも、人の手で彫るが、その彫り跡は、必ずしも作者の思い通りではないということである。木目の流れに作用されたり、彫刻刀の切れ味によって違ったり、厳密に合えば、彫刻刀の侵入角度や、その時の筋肉疲労によって変わってくる。集中している時、考え事をしていて気が入っていない時、あらゆる条件によって刃物がえぐる曲線は、人間の意図しないものになってしまう。それは、作者自身が気がつかないくらいの違いかもしれないが、人智が及ばない世界の微妙な違いかもしない。しかし、それこそが明暗を分ける大きな違いになってくるのかもしれない。

むしろ、その微妙な違いを繊細に感じ取れる段階にまでいかなければ、求める美しい曲線は作り出せないのかもしれない。

こんなことは作り手として、絶対に書くべきではないことだが、自分の作品の全てを美しいかどうかということだけを基準に見て見た時に、どれ一つとして、自信を持って美しいと言える作品は見当たらなかった。惜しい作品はいくつかあったがそれもほんのわずかでしかない。

この自分のの中の基準はどこからくるのだろうか。おそらく、これまで自分自身が感動してきたものの普遍的な美しさだと思う。

それは、遺伝子レベルなのか。個人的な好き嫌いによるものかはわからないが、自分自身の中に美しいと思える曲線があることは確かである。

そして、その曲線を作り出せていないのも確かである。

もちろん、これまでも意識はしてきたが、まだまだ、甘い部分もあったのは間違いない。しかし、それは、価格との兼ね合いもあり妥協してきたと言い訳したい。

しかし、これからさらに上を目指すのであれば、そこを妥協せずに追求していかなければいけないだろう。

自分が美しいと思える曲線がどこまで通用するのかを

そう考えるとワクワクしてきて眠れない。


私はいつも、出張する時には、図書館で本を借りて宿泊先で読んでいる。出張中が仕事から強制的に引き離される唯一の時間かもしれない。

いつものように本を探していた時に、先日、実家の法事で、器の絵付けをしている親戚のおじさんが「器はカタチが全てだ。」と熱弁していたのが記憶の片隅に残っていたらしく、器の本に手が伸びていた。

「原色日本の美術 陶芸」と「原色日本の美術 請来美術(陶芸)」という大型本の図鑑は何度となく見てカタチの勉強はしてきたし参考にしてきた。なぜ、それらの器がなぜ国宝と呼ばれるのか高さ・高台の大きさ・直径などの比率も実際に参考にして器を制作もしたことがあった。しかし、それらはカタチをなぞっただけに過ぎず、本質に至ってはいなかったことをこの「名碗を観る」を読んで痛感した。

名碗がなぜ名碗たるのかを器の背景やカタチ、バランス、景色などを解説したとてもわかりやすい本だった。

しかし、この本で紹介されていた名碗は、茶道のお茶を飲むための器として紹介されていたので、私が制作するお椀とは異なることは理解しておかなくてはいけない。

だが、お茶を飲む器であろうが汁椀であろうが飯碗であろうが、器のバランスには普遍的なものもあると思われる。その要因として手にした時の重さや手の収まり、口縁の厚みや反り、見込みの深さ、高台の形やバランスなどそれらがうまく調和し、普遍的なバランスに収まった時に人の心を揺さぶる名器になるのかもしれない。

これらを満たす器を作り上げるには、実際に出来上がったものを使ってみて、手の感触、重さ、口当たりなどを吟味し、自分の思い描く理想の感覚に少しずつ擦り合わせていく作業になるのだろう。木工よりも焼き物でのこの作業は、はるかに難しいことなのかもしれない。

私も、これから長い年月をかけて理想とする器を追い求めていくことを楽しんでいきたいと思うようになった。

見て美しく、持って心地よく、口をつけて感動する名椀を求めて


私が、この仕事を始めて8年が経つ。

始めた頃の気持ちを持ち続けるのは難しいが、いつも自分が戻る場所〈核〉を意識している。
そこからズレなければ、うまくいくという不思議な感覚がある。

これまでは、がむしゃらに意識を外に向けてアンテナを張りめくらし自分の土台を固めていたような気がする。
しかし、少しずつ環境も変化してきた。

そろそろ吸収することから、発信することに移行していく時期になってきたような気がする。
蓄積してしたエネルギーを、より発展させ高めて磨き上げる。
その転換期となる大きな節目になりそうな予感がしている。

今年は、この仕事を始めた頃から改良を重ね進化し続けてきた愛bowを「国際福祉機器展」で発表する。
クラウドファンディングを利用して、たくさんの支援者の力を借りて、背中を押してもらい、
次のステージに立つことができることに本当に感謝している。
もう、私一人だけの仕事ではなくなってきた。

ひとりでがむしゃらに頑張ってきた時期から、複数の人で進めるプロジェクトも増えてきた気がする。

私は仕事の未来を思い描ける時期と、
先がどうなるのか想像もつかない不安とわくわくの時期が、
交互にやってくるのだが、
今は後者の方である。

この展示会を終えたあとには、どんな未来がひらけているのか
まさに想像もつかない。
もしかしたら何も変わらない日常なのか…

今、未来へのその扉に手をかけて、たくさんの方に背中を押されて開こうとしている。

どんな結果になろうとも
未来は続いていくのだ・・・